キレやすい性格が災い「上杉謙信の突然死の謎」あの歴史偉人「裏素顔」

| 日刊大衆
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 生涯、18回にわたって越後から関東へ遠征した上杉謙信。関東を席巻しつつある小田原の北条氏康から関東を守る「正義」の軍勢だというのが遠征の名目だが、実際には関東で略奪を行う疑いが残る(前号で詳述)。その永禄三年(1560年)の関東遠征での逸話だ。

 北条氏康の居城小田原城を囲みながら、攻めきれなかった謙信は、鎌倉の鶴岡八幡宮で上杉憲政から関東管領職を正式に譲り受けたが、その儀式のさなかのこと。武蔵国忍城(埼玉県行田市)の城主・成田長康に対して、「扇をもって謙信公、忍(長康のこと)が頭を二つまで、したたかに打上杉謙信の突然死の謎ち給ふ」(『松隣夜話』)という事件が起きた。

 謙信が長康の頭を打擲したのは些細な理由から。そのあと長康は、謙信の仕打ちを恨みに思い、叛旗を翻すのだ。

 また、早くから謙信に服した武蔵国岩槻城(埼玉県)の太田資正も、謙信の欠点を「怒りに乗じて為し給ふところ」(『名将言行録』)だといっている。

 つまり、謙信はキレやすく短気な性格だったというのだ。ただし、『松隣夜話』は謙信の死後に書かれた軍記物で、『名将言行録』に至っては幕末の館林藩士が編纂した人物列伝。そこに書かれている内容を史実とするわけにはいかない。

 しかし、謙信が残した書状の中には、配下の武将を「馬鹿者」といって感情をあらわにする場面もあった。軍記物などが記す「キレやすく短短気な性格」というのは、あながち間違っていないのではなかろうか。

 もちろん、配下の者を厳しく糾弾するだけでなく、彼らへの気遣いを示す書状もあるが、その性格は死因にも垣間見える。

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