藤原鎌足(中臣鎌子)はNHK大河ドラマ『光る君へ』の時代に栄える藤原摂関家の祖。中大兄皇子(のちの天智天皇)とともに大化の改新のクーデター(645年)を成し遂げ、朝廷の政治を有力豪族の蘇我氏から天皇家に取り戻した忠臣という扱いで紹介される。
しかし、そのクーデターの四年後の大化五年(649年)、『常陸国風土記』に「大乙上中臣□子」とあり、□の部分に「鎌」の字を入れると、クーデターの四年後に鎌足は、平安時代の制度でいう「正八位上」に相当する官位についていることになる。
ちなみに彼の本当の名は「鎌」で、「子」や「足」という字そのものに意味はないという。したがって彼の名は「鎌子」と「鎌足」のどちらでもよいが、本稿では一般的に用いられる鎌足で通す。
さて問題は、「正八位上」が平安時代には下級公家に与えられる官位であり、クーデターを成功させた鎌足の官位がなぜ、そのように低いのかだ。
そこで『日本書紀』をひもとき、彼がクーデターで、どんな活躍をしたのか確認しておこう。
クーデターの的は、権勢を極めた蘇我入鹿で、朝鮮三国からの使節を迎える儀式が行われる宮中で刺殺される。
鎌足は佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田を刺客に仕立てたが、彼自身は当日、柱の陰に身を寄せ、いざというときのために弓で狙いを定めていただけ。刺客となった二名も怖気づき、先に飛び出した中大兄に釣られる形で入鹿に襲いかかった。
こうしてみると、鎌足が本当に活躍したかは微妙だ。