およそ270年間続いた江戸時代。その間日本を統治した徳川将軍家からは、15人の将軍が誕生した。時の将軍は絶大な権力と名声を獲得し、国民の象徴として日本の頂点に君臨した。しかし、将軍職の決定には様々な利権や思惑が複雑に絡み合い、時には死者も出たという。
今回は、名門徳川家にあって筆頭家格と目されながらも、自家からの将軍輩出が叶わなかった「尾張徳川家」の歴史をご紹介したい。
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徳川尾張藩に立ち込めし暗雲…若き藩主をはじめとする連続不審死の真相は? 「尾張徳川家」とは徳川幕府の創設者であり、徳川初代将軍である「徳川家康」には11人の息子がいた。家康は自分の実子からなる直系宗家の血筋が途絶えた時のことを考慮し、自身の実子たちを始祖とする分家から養子を迎えることで徳川家の血筋を保つことを決定した。
事実、徳川4代将軍「徳川家綱」には子がなく、家康の直系子孫は77年で途絶えている。家康は将軍家(宗家)の跡取りが途絶えた際に、将軍家に変わって将軍を輩出することができる三家を定めていた。
これを「徳川御三家」と呼び、徳川家において将軍家に次ぐ地位を有した。