江戸時代「将軍」を一度も輩出できず辛酸を舐め続けたエリート一族「尾張徳川家」の運命【前編】 (2/3ページ)

Japaaan

御三家には家康の9男「徳川義直」を始祖とする「尾張徳川家」10男「徳川頼宣」を始祖とする「紀州徳川家」11男「徳川頼房」を始祖とする「水戸徳川家」が選ばれた。
(※水戸家は後に御三家に格上げされている)

上述の三家が選ばれた理由には諸説あるが、将軍家の心臓である江戸と駿河を守護するための地理的要所に位置していたことや、家康からの信頼度などが指摘されている。

御三家は一門の中でも最高の家格に位置付けられ、「葵」の家紋使用が許可されていた。中でも尾張徳川家は御三家の中でも筆頭家格とされ、絶大な権力を有した。

尾張藩の象徴名古屋城(Wikipediaより)

藩祖「義直」の藩訓

尾張徳川家の初代藩主徳川義直は1601年に大阪城で生まれる。学問を好んだ義直は堅物であったとされ、儒教に傾倒し尊王思想を重んじた。

義直は自身の著書である「軍書合鑑」に、”敬うべきは朝廷であり朝廷と幕府が争うことがあれば朝廷側に味方せよ“と説き、その思想は歴代藩主に語り継がれ尾張徳川家の藩訓となった。

義直の思想は、後に明治維新下における尾張徳川家のあり方に大きな影響を与えることとなる。

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