忠臣蔵・大石内蔵助は”後世の評判”を気にしていた!新史料で明らかになる赤穂浪士「忠義」の真実【後編】

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忠臣蔵・大石内蔵助は”後世の評判”を気にしていた!新史料で明らかになる赤穂浪士「忠義」の真実【後編】

幕府の思慮と浪士の「忠義」

【前編】では、『忠臣蔵』で有名な赤穂事件の「忠義」について、当時の人々や幕府の受け止め方などについて説明しました。

忠臣蔵・赤穂浪士の討ち入りは本当に「正義」なのか?主君の敵討ちに潜む ”法と忠義の矛盾”【前編】

【後編】では、この事件に対する幕府の反応と赤穂浪士たちが何を考えていたのかを見ていきましょう。

徳川幕府は赤穂事件を受け、上野介の跡継ぎである義周を高島藩諏訪家に配流し、「喧嘩両成敗」の原則を守っています。

これについては、他藩の武士や民衆からの同情論を警戒した将軍の思慮が感じられますね。

【前編】でも述べましたが、当時は感情よりも原則やルールを重んじた考え方が浸透し始めていたのです。

では、討ち入りを行った当事者である赤穂浪士たちはどう考えていたのでしょうか。

彼らの考え方も、討ち入り前は十人十色だったようです。

例えば江戸で直接、内匠頭に取り立てられた堀部安兵衛は討ち入りを主張する急先鋒となりましたが、大石内蔵助は最後まで浅野家の再興を模索したとされます。

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