「敵は本能寺にあり!」
この一言で知られる明智光秀。戦国史最大の事件「本能寺の変」で、主君・織田信長を討った男です。
しかし、光秀の天下はわずか十一日。あまりに短い栄光のあと、彼とその一族には過酷な運命が待っていました。
――本能寺の変の“その後”、いったい何が起きたのでしょうか。
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しかし、同じく中国地方で毛利攻めを進めていた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は、すぐさま和睦して軍を引き返しました。いわゆる「中国大返し」です。
この迅速な行動によって、光秀の軍は整う間もなく山崎の戦いに突入。わずか十日あまりで敗北します。
敗走した光秀は、近江の山中で落ち武者狩りに遭い、最期を遂げました。享年55。その死と同時に、明智家は天下から“逆臣”として追われる立場になります。