大河ドラマ「豊臣兄弟!」皆さんも楽しんでいますか?
さて、織田家乗っ取りの野心を露わにした羽柴秀吉(池松壮亮)に対抗するのは、筆頭家老の柴田勝家(山口馬木也)と、その妻お市(宮崎あおい)。両雄は天正11年(1583年)4月に賤ヶ岳で決戦に臨みました。
今回はこの「賤ヶ岳の戦い」で活躍した桜井家一(さくらい いえかず)を紹介。果たしてどんな人物で、どんな生涯をたどったのでしょうか。
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桜井家一は生年不詳、その身元もよくわかりませんが、秀吉子飼いの一人だったそうです。
恐らくは同じく秀吉の子飼いだった加藤清正(伊藤絃)や福島正則(松崎優輝)とほぼ同年代だったのでしょう。
元服して通称を佐吉(さきち)、後に和泉守(いずみのかみ)の官途(官職の私称)を許されています。
はじめは秀吉に仕えましたが、後に秀吉の命で小一郎(仲野太賀)に仕えました。しかし明確な時期や理由についてはわかりません。
賤ヶ岳の合戦では、いわゆる清正や正則ら「賤ヶ岳の七本槍」と共に一番槍の武功を立てました。
そのため、論功行賞として丹波国に3千石の俸禄を与えられています。
「太平記英勇傳」が伝える死闘江州賤ヶ嶽の役に秀吉美濃より引かへし北軍な◆◆◆途を失ふ秀吉も◆やかて◆◆く指揮の下より桜井佐吉真先に進み敵一騎薙倒すかくて見へ◆◆り宿屋七郎左衛門桜井目がけ突かかる宿屋は無双の勇士なれば桜井已に危かりしを糟屋助右衛門彼処にかけ附終に宿屋を突おとせば弟次郎助兄の仇退さ◆◆のとはせ来るを桜井佐吉むづと組終に首をぞかきたりける
※落合芳幾「太平記英勇傳 櫻井佐吉」
【意訳】近江国賤ヶ岳の合戦で、秀吉が美濃大返しを敢行して佐久間盛政(遠藤雄弥)の軍勢を急襲すると、たちまち敵は総崩れとなった。秀吉の軍勢から桜井佐吉が真っ先に進み出て、薙刀を奮って敵一人を討ち取る。すると敵将の宿屋七郎左衛門(しゅくや しりろうざゑもん)が佐吉に襲いかかってきた。宿屋は無双の勇士であったため、佐吉は窮地に陥ってしまう。あわやというところで糟屋武則(かすや たけのり。のち七本槍の一人)が駆けつけ、宿屋は討ち取られた。それを見ていた宿屋の弟である宿屋次郎助(じろすけ)が兄の仇を討とうと斬りかかってくる。佐吉はこれを迎え撃ち、組討ちでその首級を掻き切ったのであった。
賤ヶ岳以降、再び秀吉の家臣にかくして武勲を上げた佐吉ですが、賤ヶ岳以降は、あまり合戦に従軍した様子が見られません。もしかして宿屋七郎左衛門との戦傷で後遺症が残り、陣頭指揮をとるのが難しくなってしまったのでしょうか。
やがて天正19年(1591年)に小一郎が亡くなると、その婿養子であった羽柴秀保(ひでやす。小一郎の甥で姉ともの三男)に引き続き仕えました。
その秀保も文禄4年(1595年)に亡くなると、再び秀吉の直臣として仕えます。しかし翌文禄5年(1596年。10月から慶長元年)の8月に世を去ってしまったそうです。
桜井家一・基本データ 生没:生年不詳~文禄5年(1596年)8月没 出身:不明 出自:不明 家族:不明 通称:佐吉、和泉守 官位:なし?(位階がないため、和泉守は私称と思われる) 主君:羽柴秀吉→羽柴秀長→羽柴秀保→羽柴秀吉 所領:丹波国(京都府中部)3千石 武功:賤ヶ岳の合戦(一番槍、宿屋次郎助ほか一騎討取) 妻妾:不明 子女:不明 終わりに今回は賤ヶ岳の合戦で活躍した桜井佐吉家一について、その生涯をたどってきました。果たして大河ドラマ「豊臣兄弟!」には、大勢いた若武者の一人として登場・活躍してくれるのでしょうか。
他にも秀吉の天下獲りを支えた武将はたくさんいるので、また紹介したいと思います。
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阿部猛ら編『戦国人名事典 コンパクト版』 新人物往来社、1990年8月 杉山博 編『豊臣秀吉事典 コンパクト版』 新人物往来社、2007年5月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan