松方弘樹「気がついたら青春映画の主演やっていました」~役者一族の人間力

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松方弘樹「気がついたら青春映画の主演やっていました」~役者一族の人間力

「酒は強いです。最高記録はウィスキー5本に日本酒1升飲みました。さすがに歩けませんでしたね(笑)。飲み比べでは、無敵でした。」

B29は銀色なんです。僕が、3歳の頃に住んでいたのは、東京の赤羽台。そこに日本軍の基地があって、そのB29にポンポンと高射砲を撃っていました。そんな光景を目にしながら、僕は防空頭巾を被って、防空壕に逃げるんですが、街が真っ赤に燃えてたのを覚えています。

終戦間近は、父親の実家の新潟に疎開し、東京に戻って来ると、ゆっくり走る進駐軍のジープが通るんです。映画で見るように、本当に米兵がジープの上から大きなチョコレートをピューって子どもに向かって飛ばすんです。最初に覚えた英語は「ギブミーチョコレート」。今の若い人は進駐軍と言っても知らないですよ。

映画デビューしたのは、17歳の時でしたね。普通新人は月給3000円。でも、僕は3万円もらっていました。その他に、映画1本出演するごとに、10万円。それが、月に2本3本とあるんです。10代の少年の給与じゃないですよ。でも、忙し過ぎて使えない。たまる一方です。すると悪い先輩たちから、「財布持って来い」と誘われ、酒飲みにいくんです。それも何件もはしご。僕はまだ、未成年でしたから飲まないのに、馬鹿みたいなもんです。

新人なのに破格の待遇を受けていたのは、まあ、親の七光りです。父親は、近衛十四郎といって名前が売れていた時代劇俳優だったんです。

俳優になったのも、父親の影響が大きいですね。僕は歌をやりたかったんですが、「演技も歌に役立つから、役者もやれ」と父は言うわけです。当時の東映の社長の大川博さんに会わされ、気がついたら青春映画の主演やっていました。
当時は、映画黄金時代。物凄い数の映画を撮っていましたからね。台本が次から次にくるんです。毎日、7、8本を持って一人前です。2、3本だと売れてないね、なんて言われる時代でした。僕はまったくの素人だし、すぐに辞めようと思っていたんですが、撮影所に缶詰状態だったし、会社も辞めさせてくれなかった。

その後、1年足らずで、京都の太秦にスカウトされたんです。太秦は当時、時代劇全盛でした。片岡千恵蔵さんらの大御所から、若手の中村錦之助、里見浩太朗さんなどがいました。

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