Mr.夏男・蝶野正洋が振り返る25年「G1は続かないと思ってた」 (3/5ページ)
蝶野 それ見て俺らは「どっちが締める?」みたいな相談したら、橋本選手が「俺が行く」と。これは引かないと思って任せたら「時は来た! それだけだ」。俺としては「マジかよ、それだけか?」って。しかも、声が高くて抜けたような感じで。映像にも残ってるけど、俺もマジメに作ってた表情が崩れちゃってね。
海外遠征への切符がつかめる第3回ヤングライオン杯(87年3月)では、優勝と準優勝を分け合った蝶野と橋本。それをなぞるかのように蝶野が選手会長を務めると、その後を継いだのは橋本だった。
蝶野 選手会長時代、ケガした選手のために積立金を残そうと、1000万円ぐらい積み立てたんです。だから、三沢威選手(92年引退、現・新日本プロレスメディカルトレーナー)がケガした時(獣神ライガーの浴びせ蹴りで頸椎損傷)には、そこから200万円くらい出したんです。ところが、俺の次に選手会長に就任した橋本選手が、その金で家でちゃんこやったり、地方で若手とメシ食う時に使って、あっと言う間に1000万がなくなった。それで橋本選手は、マジメな馳(浩)や(佐々木)健介に、道場の会議で吊るし上げられたんだけど、俺と武藤さんがかばって手打ちにさせたんだよね。
永島 揉めてるなっていうのは倍賞から聞いてた。橋本らしいというか、憎めないヤツなんだけど。
闘魂三銃士が中心になっていた時期の新日本は、天龍源一郎率いるWARとの抗争や、両国国技館7連戦など、次々と大仕掛けを成功させる。そんな中での永島氏の代表的な仕事と言えば、UWFインターナショナルとの全面対抗戦だ。
蝶野 もともとは俺が2回目のG1に優勝した直後、『週刊ゴング』で「高田延彦と闘いたい!」と言ったの。そしたら、むこうが(ルー・)テーズさんを使って抜き打ち訪問してきて。それから10日くらいしたら新日本の事務所にUインター側の3人がやってきた。じつはその時、俺も事務所にいたんですよ。
――3人というのは、宮戸優光選手、安生洋二選手、鈴木健社長ですね?(すべて当時の肩書き)
蝶野 そう。それで隣の部屋で会談がはじまったから「これ、どうすればいいかな? 出ていったほうがいいのかな?」と。