歴史はつながる…ナポレオンから広島・長崎原爆投下までの「戦争と平和」のストーリー

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歴史はつながる…ナポレオンから広島・長崎原爆投下までの「戦争と平和」のストーリー

原子爆弾投下から70周年を迎えた広島・長崎の両県立美術館で、『戦争と平和展』というイベントが催されている。

これは19世紀のナポレオン戦争期から第二次世界大戦に至るまでの戦争絵画を集め、戦争が市民をも巻き込む総力戦に至った経緯をたどっていこうという趣旨のものだ。
広島と長崎、それぞれ期間を分けて開催される。9月13日までは広島県立美術館で、9月19日から10月25日までは長崎県美術館でというスケジュールだ。

それにしても、壮大な趣旨の展示会である。広島と長崎の両県が第二次世界大戦をテーマとして扱うのは分かるが、今回のイベントはナポレオン戦争にまで遡って“戦争”を語ろうとしている。

ナポレオンといえば、18世紀末から19世紀にかけての人物である。だが戦略思想としての総力戦、国家総動員政策に正当性を与えたのは、他でもないナポレオンなのだ。


■ 国家総動員の祖

フランス領コルシカ島出身の砲兵将校に過ぎなかったナポレオン・ボナパルトは、1793年のトゥーロン包囲戦を皮切りに戦場で大戦果を挙げ、革命間もないフランスの英雄となった。彼は庶民の絶大な支持を背景に軍事クーデターを成功させ、フランスの元首となるに至った。

ナポレオンは、決して国民世論を踏みにじりながら成り上がった軍人ではない。むしろ当時のフランス市民は、コルシカ出身の砲兵将校が祖国を率いてくれることを熱望していたのだ。

だからこそナポレオンは、銃を取るだけの体力がある一般人をフランス軍兵士として徴兵することができた。それまでのヨーロッパの軍隊は傭兵主体だったが、ナポレオンの登場により徴募兵主体の“国民軍”が組織されるようになる。

1800年のマレンゴ会戦で状況不利と見られていたフランス軍がオーストリア軍に勝利すると、国民の熱狂はさらに大きくなった。この時点で、ナポレオンの軍政に異議を唱える者は殆どいなかった。こうして軍隊はその規模を巨大化させていく。

18世紀中葉の七年戦争では一方面に5、6万人ほど投入するだけで精一杯だったのが、ナポレオン戦争期には10万人単位の兵士を容易に動員できるようになったのだ。1806年のプロイセン戦役では、ナポレオンは20万もの兵力を前線に送り込んでいる。予備戦力はその数倍だ。

会戦そのものの頻度も、当然ながら多くなった。かつての戦争は、一度の戦役で行われる会戦はせいぜい一度か二度。殆どの場合、それだけで決着がつく。だが豊富な予備戦力を持った軍隊は、一度二度の敗退くらいでは絶対に諦めない。後方か他方面の戦区から、損失分の兵力を補充すればいいからだ。

このような新しい戦争を通して生まれたのが、“殲滅”という戦略概念である。


■ 勝利か死か

1812年、ナポレオンはフランス軍と属国軍隊の混成による60万人規模の遠征軍を組織した。目標はロシア帝国。フランスにとって、ロシアの存在は戦略上の最大の懸念事項だった。ロシアさえ潰せば、対イギリス戦でも優位に立つことができる。

だがロシアの厳冬が、その思惑を粉々に破壊した。次々に倒れた軍馬の代わりに兵士が物資を運び、その兵士もまた倒れていく。ここは列氏−30度すわなち摂氏−37.5度の平原である。重火器、軽火器、荷車、そして兵士という順番にフランス軍はその装備と人員を失っていった。モスクワを目指していた当初は60万人いたはずの遠征軍は、ついに1万人を切ってしまった。

だがここで肝心なのは、その後の1813年プロイセン戦役でナポレオンは再び数十万規模の軍隊を繰り出しているという事実だ。兵力の補充とそれに伴う徴集は1814年フランス戦役、そして1815年のワーテルロー会戦でも繰り返し行われている。

ワーテルローでナポレオンは、激戦の末にウェリントン公アーサー・ウェルズリーに敗北した。その敗因は「ド・グルーシーの石頭のせい」、「ウーゴーモン屋敷を奪えなかった」、「ミシェル・ネイの無謀な騎兵突撃があったから」等々言われているが、もし緒戦でプロイセンのブリュッヘルの部隊を完全駆逐したとしても、そこで手にする戦略的安定は脆いものだったに違いない。

現にナポレオンが1800年のマレンゴで勝ち取った“平和”は、正味2年も持たなかった。すでに国民総動員の劇的な効果を知った各国は、ワーテルローで負けたとしてもさらなる徴兵で兵力を補おうとする。平和ではなく、新しい戦いあるのみだ。どちらかへの“殲滅”が達成されるまで、戦争は終わらない。

ナポレオンは「国民軍」という、今までになかった戦争の歯車を作り出した。だがその歯車は、ナポレオン本人ですらも止められないものに化けてしまったのだ。


■ 「誰しもが軍属」という概念

ナポレオン戦争終結後、軍隊は急激な機械化を進めた。今まで馬が行っていた物資輸送を、鉄道が行うようになった。それに続き、馬での運搬が容易ではない大きさの重火器も登場する。

だが大規模輸送・大量生産を可能にするには、工場や後方の補給廠が常に稼働していなければならない。成年の男は兵隊に取られている。となると、工場に駆り出されるのは女と未成年だ。

そしてそれは、敵側も同じである。どちらも経済力の全てを戦争に充てている以上、「私は戦争とは無関係だ」と主張する人間の存在を許してはいけない。役目は違えど、誰しもが「軍属」である。それが総力戦だ。1861年に勃発したアメリカ南北戦争で、そうした総力戦の特徴が見られるようになった。

ならば両陣営が睨み合う戦線よりも、敵側の銃後を真っ先に叩いてしまえば戦争は片付くはずだ。

実際、アメリカで原子爆弾投下の正当性を強調する理論として用いられるのが、

「原爆のおかげで、アメリカ軍は日本本土へ侵攻する必要がなくなった。両軍数十万の兵士の命が救われた」

というものだ。その理論は、総力戦を前提とする戦争戦略においては決して誤りではない。戦争継続力とは、要するに経済力である。それを生み出しているのは一般市民だ。だったら、敵側の市民を女子供関係なく殺してしまえばよろしい。

そのような概念の戦争が、実に20世紀半ばまで繰り広げられていたのである。

そしてもう一つ、忘れてはいけないことがある。我々日本人にとって今年は第二次世界大戦終結70周年だが、ヨーロッパの市民にとってはナポレオン戦争終結200周年でもあるのだ。

歴史はこうしてつながっているのである。
【参考】

※ 広島県立美術館 「戦争と平和展」

【画像】

※ とち太郎 / PIXTA(ピクスタ)

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