失敗しないお城造り! そのコツとは?
日本のお城は世界でも人気で、最近では外国から多数の観光客が「姫路城」「松本城」「熊本城」などを訪問しています。一口に「城」といいますが、「戦いの中あえなく落城!」「全く使われなかった」などなど、その来歴は実にさまざま。中には造ったものの失敗だった! なんてお城もあるようです。今回は「失敗しないお城造り」について考えてみました。
「お城」に深い造詣をお持ちの歴史研究家・藤井尚夫先生にお話を伺いました。藤井先生は数多くのお城の復元図を手掛けられていることで有名です。
——このお城は失敗だったなあ、なんてことはあるのでしょうか?
藤井先生 まず「城」とは何か、城の定義から述べてみましょう。
●「城は、敵対勢力の軍事的脅威から、生命財産を守るための構築物である」
このように説明されることが多いです。
この定義から見ると、生命財産を守れなかったら失敗した築城となります。
——なるほど。
藤井先生 すると、落城した城は、全て失敗ということでしょうか。また別の面から観察すると、敵の軍事的脅威にさらされなかった城は無駄な築城だったのでしょうか。無意味な築城も失敗とすべきでしょうか。このような点を考えてみないといけませんね。
では、失敗とされる戦国期の城の例を挙げてみましょう。
■武田家の最期を考える! 「新府城」は役に立たなかった!
1581年(天正9年)に武田家は居城である甲府の躑躅ヶ崎(つつじがさき)館を廃止して、新たに新府城を築城しました。織田信長の脅威に対応したものでしょう。
しかし、翌年に織田・徳川連合軍に攻め込まれたとき、新府城に籠城せず、城に放火して逃げ出し、甲斐の東部の山地で滅ぼされます。軍事的脅威から生命財産を守ることはできませんでした。城が役に立たなかったのです。
この新府城については「失敗築城だった」と評価されているようです。
■小田原の北条氏に対抗した扇谷上杉氏! 「深大寺城」は意味がなかった!
東京の調布市に深大寺城跡があります。1537年(天文6年)に河越城(川越城)を本拠としていた扇谷上杉氏は、川越から約30km南の深大寺の古城を新たに大改修し城を造り、北条氏(後北条氏)の脅威に備えました。しかし、北条氏は深大寺城には見向きせずに河越城を攻め、河越城は落城します。
深大寺城は、軍事的にあまり意味のない位置に造られた城だったといえるでしょう。天文6年に大改修された深大寺城だったのですが、数カ月間のライフでした。これは「失敗築城」に見えます。
■上杉景勝が造った城も観察しよう! 「神指城(こうざし)」は途中放棄された!
関ヶ原合戦の前に、上杉景勝は本城の会津鶴ヶ城から4-5km北西の神指に新たに本城を造ろうとします。徳川家康は、この城造りや領内の道路造りを「豊臣家に対する謀反」として上杉攻めを開始します。
軍事的危機に、神指城造りは途中で放棄され、上杉家は家康との対陣状態になります。そして関ヶ原本戦の後、和平交渉で4分の1の領地しかない米沢移封を受け入れます。神指城は未完成でしたし、上杉家の財産である領地を守ることはできませんでした。
「上杉景勝は無駄な城造りを行った」と評価されることが多いです。
——なるほど。城と一口にいっても、その役割はさまざまでその使命を果たせなかったものもあるのですね。
藤井先生 そうですね。このような例を見てくると、
●築城目的を果たせなかったら失敗築城なのだ
と考えることもできます。
——例に挙がった3例から得られる教訓はあるのでしょうか。失敗の事例研究になると思うのですが。
藤井先生 「失敗しない築城」を行うためには、築城目的を明確にして、十分な準備の後に行うことが重要でしょう。それぞれの城について考えてみましょう。
■新府城から学ぶ!
新府城を観察すると、城としての防御性に「欠陥」があったように見えません。武田領に対する「司令塔」の位置としても間違っていません。
しかし、大名の本城は、大名が籠城して生き残るために造られるケースは少ないのです。武田領を守る司令塔として、「城」の形状をしていますが、新府城は城主の籠城を目的に造られているわけではありません。
戦国大名が生き残るには、本城での籠城ではなく、他領との境で軍事力の行使を行うかまたは外交的努力が必要です。武田家の滅亡は、新府城の築城が失敗だったからではないでしょう。
■深大寺城から学ぶ!
深大寺城の例から得られる教訓は「必要な位置に必要な城を造ろう」ということです。
「扇谷上杉氏の実力」と「北条氏の実力」を考えたとき、河越城から30kmも離れた位置に支城を造ることと、その支城が北条氏にとって「目の上のたんこぶ」的な効果を発揮するだろうか? を熟慮しなければならなかったのです。
●北条氏は深大寺城を無視できました。
味方を知り、敵も知って戦略を決める必要があります。第二次世界大戦で、南方の島々に陣地を造り、守った多くの日本軍に米軍は見向きもせず、飛び石作戦で飛び越し、軍事的に無意味化しました。
軍事拠点は敵が無視できない地点に造らなければ意味はありません。どんな立派な城を造っても、その位置が目的達成に寄与できないところにあるのでは失敗築城になります。
■神指城から学ぶ!
上杉景勝は、神指城に本城を移転する予定でした。しかし、本城は大規模であり、完成しない段階で軍事的危機を迎えました。本城をゼロベースから造るのは十分な時間のあるときに行うべきでした。
豊臣秀吉が死んで一気にパワーバランスが崩れ、乱世になる確率が高い時期に行われた点が問題です。全国規模の乱世に備えた動きに徹する必要があったのではないでしょうか。
——こうしてみますと「戦略」「戦術」など、もろもろ考慮しないと失敗になるのですね。
藤井先生 戦国期の城には多くの種類があります。「岐阜城」や「春日山城」のような戦国大名の居城もありますが、家臣の城や、支城もあります。
支城は経済拠点を押さえるものや、川の渡河点を押さえるものなど、多くの城にそれぞれに別々の築城目的があるのです。
成功した築城とは「築城目的が達成された城」といってよいでしょう。
しかし、城の存在目的は「外交環境の変化」「軍事環境の変化」によって激しく変化します。この将来起きる変化を見越した構造を持つ築城は不可能でしょう。そのため、築城直後であれば目的にかなっていても、時間がたつと環境変化は必ず起こり、以前造られた城に新たな目的を持たせることになるのです。
■もし戦国時代で城を造らないといけなくなったら!?
——もし、戦国時代にタイムスリップしてお城を造らないとならなくなったら、どうすればいいでしょうか(笑)?
藤井先生 もし戦国時代に行って城を造らなければならない事態に至ったら、このことを思い出して対処するのが良いでしょう。
失敗しない築城とは「築城直後にいかに完成度の高い城を実現させるか」という努力です。
努力の幾つかは、例を挙げて先に述べたとおりです。落ち着いて考えれば成功するはずです。そしてその城の価値を永続させるには、常に新たな目的に合わせて大小の改修をすることで、結果が出るでしょう。
場合によっては、その城を捨て、新たな位置に城を造る決断も必要でしょう。もしその機会が訪れたら、頑張って築城してください(笑)。
——ありがとうございました。
⇒『ドキュメント信長の合戦』藤井尚夫
http://urx.nu/n48G
⇒『ドキュメント幕末維新戦争』藤井尚夫
http://urx.nu/n48J
Photo(C)藤井尚夫
写真は藤井先生の撮影された「神指城」の土塁跡です。藤井先生によれば「手前の水田は水堀の跡。戊辰戦争で戦闘が行われた場所でもある」とのことです。また「戊辰戦争時点に新選組の残党が、写真の位置にあった『如来堂』を拠点にしてゲリラ戦を行っていたが、新政府軍が奇襲した場所」です。歴史好きの人には参考になる写真ですね。
(高橋モータース@dcp)