武藤敬司インタビュー “アントニオ猪木1万円事件”とは!?
天才・武藤敬司にとって、1995年はその華々しいプロレス人生の中でも絶頂期だった。5月に橋本からIWGP王座を奪取し、8月にG1初優勝。そして、伝説の10・9、Uインター対抗戦。
現在も現役をつらぬくスターにとっての新日本、そして“アントニオ猪木1万円事件”とは?
先日発売となったムック「逆説のプロレス vol.2」(双葉社)から、武藤敬司と元東スポ記者・柴田惣一の対談をお届けする。
■武藤敬司 むとう・けいじ
●山梨県出身、1962年生まれ。84年、新日本プロレスに入門。海外修行中、グレート・ムタとしてアメリカでブレイク。帰国後は、武藤敬司とグレート・ムタ、ふたつの顔を使い分けて、90年代を代表するトップレスラーとして君臨した。02年、全日本プロレスに電撃移籍。同年、オーナー兼社長となった。13年、会長を辞職し、新団体「WRESTLE-1」を旗揚げ。現役選手として、精力的に興行を展開している。
■柴田惣一 しばた・そういち
●愛知県出身、1958年生まれ。82年、東京スポーツ新聞社に入社。プロレス・格闘技担当となり、テレビ朝日「ワールドプロレスリング」で、90年代から長きにわたって解説者として活躍。プロレス大賞選考委員会の選考委員長もつとめた。今年5月に自著『東京スポーツ青春物語――大事なことはプロレスから学んだ』(飛鳥新社)を上梓。6月25日付けで東京スポーツ新聞社を退社。
82年に東スポに入社した柴田氏。武藤は84年にデビューし、海外修業を経て、86年10月に、スペースローンウルフという異名を携え、凱旋帰国した。
柴田 86年というと、 デビュー2年目ですよね。「610(ム・トー)」というヘルメットをかぶって、新時代の感じで。
武藤 あれは猪木さんが、「ヘルメットかぶってたらバイクとかのスポンサーがつくかもしれないから」って言って。でも、前面がすべてガラスだから、入場時に曇って前が見えないんだよ。だから、1、2回しか、かぶらなかった。
柴田 人気はあったけど、当時は前田(日明)さんや高田(伸彦)さんのUWFスタイルの台頭もあって、一気に突き抜けられなかったよね。
武藤 出る杭はナントカと言うしね。でも、UWFは、アマチュアスポーツを極めた人には、絶対にない思想だったよね。坂口(征二)さんとか長州さんとかマサ(斎藤)さんとか。アマなりの厳しさを、目の当たりにしてる方々は、絶対にあの発想にならないよ。そういうことをかじったことのない人が作り上げた思想というかさ。猪木さんもそうか。
柴田 武藤さんは柔道でも全国上位だったし、道場でそこに実力を上乗せして、さらに、リング上のスタイルがあるわけだから、「プロレスの本流を守っていくのはこの人だ」って気持ち、僕にはありましたよ。
90年に再び凱旋帰国した武藤。ザ・グレート・ムタというキャラクターも使い分け、人気面も含めれば、実質的なトップに。柴田氏の脳裏にも、数々の激闘が刻まれていた。
柴田 やっぱり武藤さんと言えば、僕は95年の10・9東京ドームの高田戦なんですよ。というのは、僕この時、猪木さんと並んで解説やらせてもらったんですよ。武藤さんが入場でガウンをパッと開いて、見栄を切るじゃない。そしたら猪木さんが渋い表情になって。ああいうパフォーマンス、猪木さんはあまり好きじゃないらしいんですよ。
武藤 自分はやるじゃない。
柴田 自分はやるけど、他人がやって、しかも超満員だった。あれは絶対猪木さん、「俺が関係ないのに、ここまで満員なのか」ってカチンときてた。間違いなく。
武藤 その辺、あの人のエネルギーの源だよね。ジェラシーというか。
柴田 あと、ムタとして福岡ドームで猪木さんとやった時(94年5月1日)もすごかった。
武藤 引退カウントダウンの試合なのに、そこからどんどんカウントアップしちゃったんだよね。
柴田 すごいって、そこじゃなくて(笑)。猪木さんがマイクで、「いつでも殺してやる」だの「腕一本くれてやる」だの「ふざけやがって」って。猪木さんにあんなこと言わせたのは武藤さんだけ。好き放題やられて悔しかったというか。
武藤 まあ、俺はね、猪木さんの顔がムタの毒霧でグリーンになったらそれでよかったんですよ。勝負論を展開するあの猪木さんが緑だったら、それだけで俺はハッピー、ハッピーだったの。
柴田 勝った!と。
武藤 勝ったというか気分はよかった。小川(直也)とグレート・ムタの試合(97年8月10日)でも、レフェリーやった猪木さんに毒霧吹いてるくらいだから。
柴田 あったね。試合もはじまってないのにいきなり。猪木さん、びっくりした感じで。
武藤 猪木さんとは、俺、いい距離感でいたと思うよ。橋本みたいにベッタリになると危険じゃん。
柴田 会話はあったんですか。
武藤 いまでも覚えてんのが、新弟子で入ったばっかの時に、猪木さんがブラっと道場に練習しにきて、帰る時に、「おい、武藤。タクシー代貸してくれ」って。俺、1万円貸したの。
柴田 新弟子から。
武藤 そうだよ。しかもその1万円、まだ返してもらってない。スゲー根に持ってる。あの時の1万円ってデカイから、いまの比じゃない。だから忘れない。
柴田 道場で猪木さんとスパーリングはされました?
武藤 やったよ。
柴田 意外と変な仕掛けをやっちゃったとか。
武藤 そんなことはないけど、まあまあ……。
柴田 まあまあって(笑)。
武藤 スパーリングはやりやすい人ですよ。変に素人だと、やりづらい人もいるじゃないですか。とはいえ、猪木さん、決して運動神経のいい人じゃないんだよね。
柴田 球技やらせたら全然ダメ。武藤さんは何やらせてもいけたというか。
武藤 まあ、俺は運動神経いいから。
柴田 でも、存在とかスター性とかで考えると、武藤さんが猪木さんを一番継いでる気がするんですけど。リング内だけかもしれないけど、発想も常人離れしてるし。卒塔婆(そとば)使ったり。
武藤 ああ、新崎人生とやった時(96年4月29日)。
柴田 猪木戦と並ぶ、僕のムタのベストバウトでしたね。卒塔婆で殴って、折れたのに、人生の血で「死」と書く。こっちの予想以上のことやってくる。プロレス頭がスゲーなーって思いましたよ。
武藤 帰り、交通事故に遭うんじゃねえかと思ったよ。
柴田 あの試合が、ドクロムタの走りでしたよね。試合で使ったアイテムを展示企画とかにできればいいよね。
武藤 新日本辞める時に倉庫にみんな置いてきちゃったよ。で、グレート・ムタの商標権って新日本が持ってんですよ。
柴田 あらら。
武藤 当時、新日本で麻雀が流行ってて、坂口さんと倍賞(鉄夫)さんとかで麻雀やるぞって時に俺、遅刻してったのよ。そしたらむこうはカリカリしてて。「まずこれを書け」っていうのよ。それが商標登録の契約書で。
柴田 わけもわからず。
武藤 値段が75万円だかいくらか必要ってのを会社が払ってくれると。じゃあ、わかりましたって書かされて。ちょうど大仁田(厚)が新日本に出た時かな。
柴田 じゃあ、99年の、ムタvsニタの時ですね(8月28日・神宮球場)。
武藤 で、新日本を辞める時に、そういうムタの道具を倉庫に置いてきちゃって。ところが、しばらくすると、新日本の東京ドーム大会からオファーがきて。これ幸いと、坂口さんに「ちょっとムタの道具返してくれませんか? そしたら出ますので」って言って。
柴田 東京ドームに出る条件で、返してもらったと。全日本の九段下の事務所に飾られてましたよね。
武藤 でも、結局、全部取り返したわけじゃないのよ。
柴田 大切に保管してほしいですね。
※全文の一部分を抜粋。全編は本誌「逆説のプロレス vol.2」にてお楽しみください。
取材◎若瀬佐俊
徹底追跡、大特集。新日本プロレスのG1クライマックスの25年間の全事件に迫った「シリーズ 逆説のプロレス vol.2」絶賛発売中!
「新シリーズ 逆説のプロレス vol.2」(双葉社スーパームック)より引用