肥後の五郎鎌倉へ行く、今に語り継がれる「蒙古襲来絵詞」の背景
source:http://www.shutterstock.com/
13世紀ユーラシアは、モンゴルの脅威と戦っていた。
周辺部族を統一してモンゴル帝国を構築したチンギス・ハーンは、「自分たちこそが世界最強の軍隊である」ということを、人生の早い段階で気付いていた。
遊牧民族の移動スピードは、農耕地を収入源とする巨大国家を大いに翻弄した。農耕民族の軍隊は、あまり遠くへ軍を送り込むことができない。だが遊牧民族は、その土地その土地に居を構えてしまう。モンゴル軍が強いのは当然だった。
モンゴルの侵攻を止めることは、どの国家にもできなかった。それは日本も同じである。『元寇』と呼ばれる2回の日本侵攻、すなわち『文永の役』と『弘安の役』だ。
日本史上、外国勢力からの侵略はこれが初めてというわけではないが、当時世界最大の船団が日本を襲ったという、未曾有の出来事に朝廷も鎌倉武士も驚愕した。
だがその中で、己の豪快な生き様を貫き通し、それを後世にも伝えた男がいる。
竹崎季長。肥後出身の御家人である。
■ 貧乏御家人の奮闘

source:http://www.shutterstock.com/
竹崎季長は存命中、“五郎”という名で呼ばれていた。
「肥後竹崎の御家人の五郎殿は、何とも豪快なお人じゃ。蒙古との戦で手柄を立て、幕府からの恩賞をもらいに鎌倉へ出かけているそうじゃ。」
この言葉が何を意味するか、お分かりだろうか?
詳細は明らかではないが、季長には上に複数人の兄がいた可能性があるということだ。鎌倉時代、土地財産の相続はすべての子息の間で平等に分けられていた。相続権のある子が3人いたら、当主の死後その家が所有する土地は3等分する、というように。
だがそれを続けていくと、土地は零細化する。だから鎌倉時代の北条執権政治は長く続かなかった。
季長は同族内の土地争いに負け、没落した御家人と言われている。その所領は非常に小さかったか、あるいは兄の家を間借りしていたとも考えられている。早い話が“穀潰し”だ。
「だからこそ、五郎殿は蒙古との戦で手柄を立てなくてはならなかったのじゃ。だが、待てど暮らせど幕府からの恩賞の沙汰はない。怒った五郎殿は、鎌倉へ直訴をしに行ってしまった。」
元寇は当時の鎌倉政権の弱点を、意図せずとも見事に突いてしまった。日本側にとってこの戦は防衛戦だ。勝っても何も得られない。ただでさえ御家人たちの所領が細分化しているのだ。功労者に恩賞などばら撒くことは不可能である。
だが御家人たちは、命がけで戦ったのだ。恩賞をもらうのは当然だ。それができない幕府は、もはや存在意義をなくしかけている。
季長も、そんな幕府に不満を持つひとりだった。
■ 馬と恩賞地を授かる
「五郎殿は運のいいお方じゃ。鎌倉の城九郎殿にお会いして、己の手柄を語ることができた。だが、いろいろと難儀したそうじゃ。幕府は五郎殿の手柄を認めたくないようでの……。」
季長は、鎌倉の恩賞奉行だった、安達泰盛に謁見する機会を得た。だが泰盛は当初、「先駆けの功績だけでは恩賞を与えることはできない」と告げた。
それに対して季長は、「恩賞が目当てではなく、自分の先駆けの功績が鎌倉に報告されていないのが不満だ。再度調査したうえで、もし自分が嘘をついているのであれば、この首を撥ねてほしい」と返したのだ。
これが凡人ならば、本来の目的である恩賞について話すところだ。だが季長は凡人ではない。まず自分の戦果を既成事実として持ち出すことによって、竹崎五郎季長という御家人の存在を無視できないようにしたのだ。肥後から鎌倉まで徒歩でやって来た健脚の持ち主は、同時に恐るべきネゴシエーターでもあったのだ。
その後、季長には恩賞地がもたらされただけでなく、ここまでの移動手段が徒歩であったことを見かねた泰盛から、なんと馬が贈られた。季長は自身の馬を、鎌倉までの旅の路銀にと売ってしまっていたのだ。
肥後の穀潰しは、この恩を生涯忘れなかった。

source:https://pixta.jp/
■ 世界唯一の「画像史料」
「五郎殿は弘安の戦でも手柄を立てた。京の公家衆は神風が吹いたから、蒙古を追い払うことができただの何だのぬかしておるが、五郎殿のような御家人が幾人もおられたから、今の日本の太平はあるのじゃ。城九郎殿からいただいた恩を忘れず、こうして絵巻にも残した。五郎殿は大層なお方じゃ」
『蒙古襲来絵詞』という画像史料は、日本人なら誰しもが見ているはずだ。モンゴル軍の攻撃を受けて逆立ちになった馬に、かろうじてしがみつく武士の絵だ。
この絵巻物の制作を監修した季長は、それにより世界史の上でも記録される人物になった。
モンゴル軍はユーラシアの各地を荒らし回ったが、意外にもそれを描いた画像史料は乏しい。そもそも遊牧民族は、絵というものを描いて記録に残すということはしなかったし、彼らと戦った周辺諸国の住人には「なぜあんな蛮族の絵なんか描かなきゃいけないんだ」という心情がある。
だからモンゴル軍を描いた絵があったとしても、相当に悪魔化されていて、とても正確な描写とは言えない。
モンゴル軍の姿格好や使った武器などを、絵師に命じて細かく描かせた人物は世界にただ一人、竹崎季長しかいなかったのだ。
ではなぜ、季長は『蒙古襲来絵詞』を制作するに至ったのか。
恩ある安達泰盛への懺悔の気持ちがあったのでは、と言われている。泰盛は弘安の役の4年後、政敵の平頼綱に奇襲され、一族共々自害して果てるという悲惨な最後を迎えた。いわゆる“霜月騒動”である。
この政変は鎌倉での出来事だ。遥か彼方の肥後に住まう御家人は、助太刀したくともできない。「城九郎殿が自害された」との報を聞いた季長は、まさに血の涙を飲んだに違いない。
『蒙古襲来絵詞』の制作は、かろうじて生き残った泰盛の一族残党が、政治的復権を果たした直後のことである。
絵巻物は現在は宮内庁の所有物で、三の丸尚蔵館に保管されている。我々現代人はこの世界的な文物を、何と無料で見学することができる。ぜひ一度、足を運んでみてはいかがだろうか。
【参考・画像】
※ Luciano Mortula / Shutterstock
※ Vincent St. Thomas / Shutterstock
※ photo traveler / PIXTA