肥後の五郎鎌倉へ行く、今に語り継がれる「蒙古襲来絵詞」の背景 (1/3ページ)
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13世紀ユーラシアは、モンゴルの脅威と戦っていた。
周辺部族を統一してモンゴル帝国を構築したチンギス・ハーンは、「自分たちこそが世界最強の軍隊である」ということを、人生の早い段階で気付いていた。
遊牧民族の移動スピードは、農耕地を収入源とする巨大国家を大いに翻弄した。農耕民族の軍隊は、あまり遠くへ軍を送り込むことができない。だが遊牧民族は、その土地その土地に居を構えてしまう。モンゴル軍が強いのは当然だった。
モンゴルの侵攻を止めることは、どの国家にもできなかった。それは日本も同じである。『元寇』と呼ばれる2回の日本侵攻、すなわち『文永の役』と『弘安の役』だ。
日本史上、外国勢力からの侵略はこれが初めてというわけではないが、当時世界最大の船団が日本を襲ったという、未曾有の出来事に朝廷も鎌倉武士も驚愕した。
だがその中で、己の豪快な生き様を貫き通し、それを後世にも伝えた男がいる。
竹崎季長。肥後出身の御家人である。
■ 貧乏御家人の奮闘

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竹崎季長は存命中、“五郎”という名で呼ばれていた。
「肥後竹崎の御家人の五郎殿は、何とも豪快なお人じゃ。蒙古との戦で手柄を立て、幕府からの恩賞をもらいに鎌倉へ出かけているそうじゃ。」
この言葉が何を意味するか、お分かりだろうか?
詳細は明らかではないが、季長には上に複数人の兄がいた可能性があるということだ。鎌倉時代、土地財産の相続はすべての子息の間で平等に分けられていた。相続権のある子が3人いたら、当主の死後その家が所有する土地は3等分する、というように。
だがそれを続けていくと、土地は零細化する。だから鎌倉時代の北条執権政治は長く続かなかった。