天才すぎ! 日本初のライターを作ったのはあの平賀源内ってほんと? (2/2ページ)

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これを定期的に開催し、江戸での注目を浴び、杉田玄白や中川淳庵との繋がりを得ることもできたのです。

しかし、この評判を聞いて、高松藩の松平は源内を呼び戻します。せっかくこれからがチャンスだというときに、源内に命じられたのは貝殻の採取でした。

こうして源内は脱藩を決意するのです。その退職願には「わがままに自分のしたいことをするために脱藩したい」と、正直に書かれていたとのことでした。

■こうして肩書は増えていった!

江戸にもどった源内は、「根南志具佐(ねなしぐさ)」「風流志道軒伝」という戯作を発表し、ベストセラー作家になります。また、「風来六部集」で浄瑠璃作家としても活躍した一方で、「放屁論」というおならを論じた超絶クダラナイ著作もありました。

埼玉の秩父では石綿を発見し、火浣布作成に成功します。ついでに炭焼、荒川通船工事の指導なども秩父にて行います。その実績を買われ、出羽秋田藩の佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、さらに秋田藩士に蘭画の技法を伝え、秋田蘭画の誕生に多大な影響を与えました。

日本初のコピーライターとしても有名です。「漱石香」という歯磨き粉に「効くか効かないかわかんないよ」という悪ふざけのようなコピーを付けたところ、江戸の人々にとてもウケたといいます。夏、全く売れないうなぎ屋のために「土用の丑の日にうなぎを食べる」といった宣伝文句を作ったという話もあります。

今では初詣の定番、破魔矢(はまや)ももとは源内のアイデアです。

これだけ多方面にわたる才能を持ちつつも、当時の源内は変人扱いされ、社会に受け入れてもらえませんでした。やがて彼自身も世間に対して背を向け、著作では幕府行政の様々な矛盾を痛烈に批判していました。

■まとめ

 ・平賀源内は「刻みたばこ用点火器」など、数多くの発明品を生み出した

 ・「土用の丑の日」にうなぎなど、コピーライターとしても活躍

源内の最期は、人をあやまって殺害してしまい、投獄され、破傷風が原因で獄死という悲しいものでした。

墓標を建てたのは、親友の杉田玄白。彼は「ああ非常の人。非常のことを好む。行ないこれ非常なり、なんぞ非常に死するや」と墓標に刻み、その最期を惜しんだのでした。

(沼田 有希/ガリレオワークス)

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