天才すぎ! 日本初のライターを作ったのはあの平賀源内ってほんと? (1/2ページ)

エレキテルで有名な平賀源内(ひらがげんない)には、じつはたくさんの発明品があります。燃えない布の火浣布(かかんぷ)、万歩計、寒暖計、磁針器、などその数はなんと100種以上になります。
そのなかに、ぜんまいと火打ち石を使った「刻みたばこ用点火器」、現代にも通用する構造のライターも含まれていたのです。
じつはこの発明家としての顔は、源内の持つ多くの肩書のうちのひとつでしかありません。彼は多くの分野に興味を持ち、稀代の天才と呼ぶにふさわしい人物だったのです。
■好奇心旺盛な自由人!
本草(ほんぞう)学者・発明家・蘭学者・起業家・戯作家・鉱山家…これは平賀源内というひとりの人物の肩書の一部です。
源内はもともと高松藩にて、本草学という薬についての学問や儒学を学び、薬坊主格という役職に就いていました。その博識ぶりは藩主の松平頼恭からも一目おかれ、25歳の時に1年間の長崎行きを命じられます。
このころの長崎は、日本で唯一海外文化に触れられる場所でした。好奇心旺盛だった源内は、医学や油絵などを学び、珍しい舶来品に胸をときめかせていました。その後、高松藩へ戻ったのはいいものの、居ても立ってもいられなくなった源内は、藩の役職を降り、さらには妹婿に家督も譲ってしまったのです。身軽になった源内は、他の藩に仕官しないという約束をして、28歳で江戸へ繰り出します。
まず、本草学者へ弟子入りし、漢学を習得するために林家にも入門し、聖堂に寄宿します。2回目の長崎では鉱山の採掘や精錬の技術を学び、その後、伊豆で鉱床を発見し、産物のブローカーにもなりました。
さらには日本初の物産展を開催します。薬草や薬品をメインにしたこの物産展のスゴイところは3つ。海外からとんでもない値段で輸入していたものも、日本のどこかで見つかるかもしれないこと。地方間での流通と物流が生じること。実際に見ることで、本草学者の勉強になること。