え、違うの!? 「天王山の戦い」は天下分け目じゃなかったってほんと? (2/2ページ)
そして情にも篤く、戦死者の葬儀にしても、侍大将も下っ端の足軽も関係なく同額の葬儀費用を出していました。おそらく光秀は、頼れる大将でした。
ではなぜ、光秀は信長を討ったのでしょう。信長を恨んでいたなどさまざまな説がありますが、その真相はいまだにわかっていません。
■黒田官兵衛の奇策
本能寺の変にて、光秀は信長の首を取らなかった(取れなかった?)ことが、致命的なミスでした。なぜなら秀吉がそれを利用したのです。
本能寺の変が勃発していたころ、秀吉は備中高松城を水攻めにし、毛利の大軍と戦の最中でした。
しかし毛利側は早く講和したいと考えていましたし、秀吉もそれを察していました。そのため、信長の死を知ると、すぐに和睦して「中国大返し」で京都へ向かいます。
秀吉は道中「信長様は生きている」という噂を流しました。もしこれが本当だった場合、光秀の味方になることで、自分たちがどうなるか。信長が自刃したと知っていても、首が出ていない、という事実で諸将たちは迷ってしまったのです。
その結果、光秀と親友だった細川藤孝とその息子の忠興も、織田家の傘下へ入る際に力添えをした筒井順慶も、光秀の味方となってくれませんでした。
こうして山崎に到達するころには、秀吉は織田方の諸将を吸収し、4万の軍勢に膨れ上がったのです。さらには、軍師である黒田官兵衛は陣中に毛利氏の旗を掲げました。これは、和議が整って兵を引いた毛利に頼み、旗だけを借りたのです。
光秀にしてみれば、組んで秀吉を攻撃しようとした毛利が、同盟を拒否し、秀吉と共に攻めてきたとしか見えません。こうして官兵衛は秀吉の先鋒隊とともに「宝寺」を占拠し、開始から約3時間でサクッと勝利をおさめたのでした。
■まとめ
・天王山は「激戦」ではなく、心理戦だった
・重要拠点は「宝寺」で、天王山はほぼ無関係…
黒田官兵衛の戦い方は、人間の心理を利用し、味方の士気を高め、相手の戦意を失わせます。効率は良いですが、姑息とも考えられる手段でした。
この考え方が勝つためには必要だったことなのでしょう。その証拠に官兵衛は生涯戦で負けることはありませんでした。
(沼田 有希/ガリレオワークス)