え、違うの!? 「天王山の戦い」は天下分け目じゃなかったってほんと? (1/2ページ)

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スポーツなどで「今日が天王山ですね」というような、先行きを決定付ける重要な試合を「天王山」と呼びます。これは豊臣秀吉と明智光秀が戦った、天王山の戦い(山崎の戦い)が由来となっています。

しかし、この「天王山」を押さえることで、勝敗が決したとされていますが、史実は違います。実際には、天王山ではなく、山崎の「宝寺」が攻守に都合の良いカギとなる場所だったのです。

この戦いにおいて秀吉を助けたのは、軍師・黒田官兵衛の奇策でした。

■明智光秀はデキる男だった?

秀吉が光秀を討つきっかけとなった出来事は、言うまでもなく「本能寺の変」です。

しかし光秀は、信長を襲う1年前、自らの家臣を戒めた「家中軍法」の中で、「私は瓦礫(がれき)のように沈んでいた境遇から、信長様に取り立てられ、強大な軍勢を任されるまでに至った」と、信長への感謝の気持ちを表していました。そもそも明智光秀という人物は、出生年も定かではなく、その人生の前半はよくわかっていません。そしてその身分は低かったと考えられます。

しかし、40代で信長に仕えると、すぐに織田家家臣の中でもイチバンの出世頭となりました。その証拠に、誰よりも早く近江坂本城主となり、その後、丹波一国を加増されて、さらに亀山城主になったのです。坂本と亀山は、京都東西の要衝です。信長は、光秀に大いに期待し、仕えて日の浅いにもかかわらず、織田家の古参武将と同等の扱いをしたのでした。

武闘派の多い織田氏家臣団の中にあって、光秀は和歌や茶の湯に通じた教養人でした。京都で光秀は、朝廷との交渉役となったり、公家との連歌会に参加して歌を詠むなど、他の武将たちができない役割を果たし、信長に貢献しました。

そのうえ、抜群の射撃技術を持っていたため、戦にも強かったのです。結果を出せない者はリストラされる超実力主義の織田家においても、その才覚は抜きんでていました。

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