実は短期決戦だった!? 「関ヶ原の戦い」はたった6時間で終わったってほんと? (2/2ページ)
さらに家康の勝手な行動に反発しており、ほかの大名たちの暴動を抑える役割も果たしていました。このへんが三成との違いなのでしょう。
しかし1599年、前田利家が亡くなると、事態は一気に進みます。ある日、家康は前田家の跡継ぎ利長と、五奉行の浅野長政が結託し、家康の暗殺を計画していたと公表し、この真偽もわからないまま、亡き利家の妻である「まつ」が徳川家へ人質となり、従う姿勢を見せたことで収束します。
こうして前田の権力を手に入れた家康は、着々と天下取りに向かって歩みを進めていったのでした。
■そして関ヶ原へ
そして1600年。家康は、各地の大名家に年賀の挨拶を求めたところ、上杉家だけは断ります。しかも、合戦の準備をしているという噂もありました。釈明しろと言ったところ、上杉家の重臣である直江兼続より、勝手な行動や前田家への仕打ちを揶揄(やゆ)し、文句があるならかかってこい、という内容の返信を受け取ります。俗にいう「直江状」です。
これが関ヶ原の戦いの引き金となりました。
三成は堂々の決戦を望み、五大老の毛利輝元を総大将とし、家康を打つべく軍を率いました。三成は西軍、家康は東軍、勢力としてはやや西軍の方が有利でした。
しかし実際に関ヶ原で戦を初めてみると、東軍に参加するはずだったのに、関所が封鎖されていたため、仕方なく西軍になったやる気ゼロの長宗我部家。進軍しろといっても、弁当を食べているからダメだと突っぱねる宰相・吉川広家(この時点で東軍との繋がり有り)のせいで、何もできない毛利家。西軍を裏切る小早川秀秋、連鎖して裏切った脇坂安治。
こうして早朝開戦した関ヶ原の戦いは、昼過ぎには終わったのでした。
■まとめ
・「関ヶ原の戦い」は、たった6時間で終わった
・家康が周到な事前準備をしていたため、開戦前から勝敗はほぼ決まっていた
・敵方に「裏切り者」を多く潜ませ、弁当中だから戦わない!などグダグダな大名もいた
関ヶ原の戦い事態はとても短いものでしたが、ここに至るまでには多くの思惑がありました。それぞれが優先すべきものを考えた結果、このような幕引きになったのでしょう。
ただ、三成が人格者であれば、別の結果になっていたのかもしれません。
(沼田 有希/ガリレオワークス)