杉並区・中野区も「神奈川県」だった! 東京23区に残る「多摩の痕跡」を追う
前回、神奈川県と東京都の「領土問題」について、史料を基に紹介した。西多摩、南多摩、北多摩の「三多摩」に焦点を当てたが、もうひとつの「東多摩」にも領土をめぐるアレコレがあった。
このエリアには、ブロードウェイやサンプラザで知られる中野や、「ラーメンの街」荻窪といった繁華街があるが、これらもほんの数か月だけ「神奈川県」として扱われていたのだ。
中野サンプラザ(くーさんさん撮影、flickrより)
「不便の苦情」で、すぐに再移管神奈川県からの申し立てをうけ、東京府から移管された「多摩郡」。しかし、明治5年8月19日(1872年9月21日)、神奈川県下にある多摩郡のうち、中野村など31か村を東京府管轄に移すとの通達が出る。この31か村が、現在の中野区・杉並区だ。通達や上申を見ると、「不便ノ苦情アリ」「見込相違」との文字がチラホラ。移管したはいいが、やはり神奈川県からは遠すぎたのだろう。

中野村などは、東京府(赤いモヤの部分)から外れている(「神奈川県管轄村々ノ内東京府ヘ管轄替伺」を一部拡大、国立公文書館デジタルアーカイブより)
東京と神奈川にわかれた「多摩郡」は1878年、郡区町村編制法に基づいて、東京府の「東多摩郡」と、神奈川県の「西多摩郡」「南多摩郡」「北多摩郡」に分割。18年後の1896年4月には、東多摩郡が南豊島郡と合併し、「豊多摩郡」となった。
1916年に発刊された「東京府豊多摩郡誌」には、こう書かれている。
「(編注:明治4年)十一月十三日品川県廃せられて東京府管轄に轉じ、翌五年五月東多摩郡を東京府より割きて神奈川県に組換へ、第四十六、七区とす、尋で同年八月十九日之を東京府に復す」(一部、現代の漢字表記に変更)この記述が正しいとすれば、中野と杉並は、明治5年5月から8月まで、3か月ばかりの「神奈川県」だったことになる。
世田谷にも「神奈川県」があった!豊多摩郡は1932年、東京市に編入されて消滅。中野区、杉並区、渋谷区、淀橋区(現在の新宿区)となった。住所としては残っていないが、杉並区の都立豊多摩高校などに名を残している。
豊多摩高校の並木道(Junpei Abeさん撮影、flickrより)

成り立ちは違うが、世田谷区の一部も「神奈川県」だった時代がある。区南西部にあった砧村と千歳村は、町田などと同様に1893年までの約20年間、神奈川県に属していた。その後「東京府北多摩郡」を経て、1936年に「東京市世田谷区」に編入される。
砧公園も旧砧村(karitsuさん撮影、flickrより)

旧砧村の宇奈根(うなね)地区は、かつて多摩川の両岸に広がっていた。しかし1912年、多摩川が県境に定められたことにより分断。現在も「東京都世田谷区宇奈根」と、「神奈川県川崎市高津区宇奈根」にわかれている。

宇奈根や喜多見、祖師谷は神奈川県(青色)に属していた(「東京府及神奈川県境域ヲ変更ス」を一部拡大、国立公文書館デジタルアーカイブより)
「多摩」をめぐる東京と神奈川の関係。これをもって「やっぱり町田は神奈川だ!」と考えるか、それとも「東京だろ!」と考えるか。それぞれの結論を抱いて頂ければ幸いだ。