【プロ野球】あの懐かしの”横浜大洋ホエールズ”時代を振り返る (2/2ページ)
■優秀な助っ人外国人が活躍
川崎球場時代から有能な外国人スカウト・牛込惟浩氏(今年4月に逝去)の力もあって、クリート・ボイヤー、ジョン・シピンといった、優良外国人が活躍していた大洋。横浜移転後もそのよい流れは続いた。
1979年に入団したフェリックス・ミヤーンは、バットを水平に構える独特のフォームから安打を量産。打率.346で首位打者を獲得した。
さらに1986年にはカルロス・ポンセが入団。4番打者として活躍し、本塁打王1回、打点王2回と結果を残す。何よりもその風貌が、当時流行していたゲームソフト「スーパーマリオブラザーズ」の主人公に似ていたため「マリオ」と呼ばれた。
1988年に入団したジム・パチョレックは、1年目から首位打者争いを演じて、確実性の高い打撃で、ポンセとともに中軸を形成。1990年には首位打者に輝いている。
また1991年入団のR・J・レイノルズは、同年にプロ野球記録となる11打数連続安打をマーク。走攻守三拍子揃ったプレーで、ベストナインとゴールデングラブ賞を受賞した。
■横浜大洋ホエールズとともに生きたエース・遠藤一彦
横浜に移転した1978年に東海大から入団したのが遠藤一彦だった。2年目の1979年に12勝を挙げて台頭すると、先発ローテーションの一角に加わる。
なかでも1983年は18勝9敗、186奪三振と、最多勝と沢村賞を受賞して大きく飛躍を遂げる。さらに翌1984年も17勝をマークして、2年連続で最多勝を獲得。
ただし、この年に17敗を喫したことは、当時の大洋の状況を表していた。大洋のみならず、リーグを代表するピッチャーとなった遠藤だったが、1987年の終盤には右足のアキレス腱を断裂。1982年から続けていた2ケタ勝利も、1988年には途絶え、現役引退の危機を迎えた。
しかし1990年、先発から抑えに配置転換となった遠藤は、21セーブを挙げ復活。カムバック賞を受賞した。そんな遠藤も1992年限りで引退を表明。引退試合となった10月7日、本拠地での巨人戦はシーズン最終戦。くしくも「横浜大洋ホエールズ」としての最後の試合だった。遠藤は先発し「横浜大洋」とともに歩んだ15年間の現役生活に別れを告げた。
文=武山智史(たけやま・さとし)