【プロ野球】あの懐かしの”横浜大洋ホエールズ”時代を振り返る (1/2ページ)

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横浜大洋の暗黒時代に孤軍奮闘した遠藤一彦。抑えに転向してカムバック賞も受賞している
横浜大洋の暗黒時代に孤軍奮闘した遠藤一彦。抑えに転向してカムバック賞も受賞している

 5月10日から12日まで、横浜スタジアムで行われたDeNA対中日3連戦。このカードでは、懐かしいユニフォームが復活した。

 ホームであるDeNAの選手たちが身にまとったのは、1978年から1992年まで15年間着用していた横浜大洋ホエールズ時代のユニフォーム。本拠地が、川崎球場から当時新設された横浜スタジアムに移り、港町・横浜をイメージしたマリンブルーがチームカラーとなった。

 何よりも斬新だったのは、ホーム用ユニフォームに「YOKOHAMA」と、チーム名ではなく地名が入った点だろう。チームは15年間でAクラスがわずか3回、最下位は3回と、決して強いチームではなかった。

 しかし今でも、多くのプロ野球ファンには「横浜大洋ホエールズ」の記憶は残っている。そんな「横浜大洋ホエールズ」の時代を改めて振り返ろう。

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■高木豊、加藤博一、屋鋪要の「スーパーカートリオ」

 1985年、当時の近藤貞雄監督は1番・高木豊、2番・加藤博一、3番・屋鋪要と、俊足の選手を1番から3番まで並べた上位打線を考案。その後、当時のスピードの象徴であったスーパーカーにちなんで、3人は「スーパーカートリオ」と命名された。

 この年、3人は走りに走った。前年に盗塁王を獲得した高木は42盗塁、キャリアハイの129試合に出場した加藤は48盗塁、屋鋪は58盗塁をマーク。盗塁王は73盗塁を挙げた高橋慶彦(当時広島)に奪われたものの、3人で計148盗塁を記録。1つの球団で3人の選手が40盗塁以上を記録したのは、プロ野球史上初の出来事だった。

 その後、屋鋪は翌年の1986年から3年連続で盗塁王を獲得。チームの看板選手となったほか、高木は主力選手として活躍。加藤は貴重な名バイプレーヤーとして、ファンから愛された。

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