デーモンズ・コアの臨界事故で被ばくしながらも研究を止めなかった物理学者、ルイス・スローティン博士
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デーモン・コアという言葉をご存じだろうか?これは、アメリカのロスアラモス研究所の各種実験で使用された約6.2kgの未臨界量のプルトニウムの塊で、当初はルーファスと呼ばれていたものだ。
不用意な取り扱いにより2度の臨界事故が発生し、二人の科学者が命を落とした。1946年5月21日に起きた二度目の臨界事故でカナダ人物理学者ルイス・スローティン(享年35)は、誤って核分裂反応を発生させてしまい大量の放射線を浴びてしまったのだが、その直後でも研究を止めなかった。米ニューヨーカ誌で、スローティンの死に関しての特集がなされていた。
その実験は1946年5月21日の午後に始まった。場所はニューメキシコ州ロスアラモスから4.8km離れた渓谷に建てられたある研究所だ。ここは原爆が開発された場所でもある。
この時ルイス・スローティン博士は、核兵器の露出したコアを臨界点付近に近づける方法を同僚に見せていた。これは”竜の尾のくすぐり”と呼ばれた少々注意が必要な任務であった。
低いテーブルに置かれた物体は一見なんの変哲も無い代物に見えたが、半球型の鈍く光る金属の中心にはプルトニウムがむき出しになっていた。触れてみれば放射線のせいで暖かさが感じられる。
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これは長崎への原爆投下直後、日本に再度攻撃を仕掛けるために作られたものだが、日本の降伏を受けてお払い箱になっていた。当時、スローティン博士はプルトニウムの扱いに関しておそらく世界最高の専門家であったろう。
最初の核兵器の開発に貢献したのは1年ほど前のことだ。残されている写真には、作りかけの核兵器の横でシャツのボタンをはだけたサングラス姿でポーズをとる彼が写っている。その当時の原爆は手作りだったのだ。
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スローティン博士、うっかりマイナスドライバーを落とす
スローティン博士の手順はシンプルだ。タンパーというベリリウムの半球をコアのギリギリまで近づける。するとタンパーが中性子を反射しプルトニウムに放たれ、核分裂連鎖反応が起こる。あとはこれを測定してデータを取集するだけだ。スローティン博士は左手にタンパーを右手にマイナスドライバーを持った。マイナスドライバーはタンパーとコアの隙間を確保するためのものだ。
彼が慎重に行わなければならない作業に取り掛かっていたとき、同僚のリーマー・シュレーベル博士はしばらく時間がかかるだろうと思い、別の仕事に集中するべく踵を返して背を向けた。すると突然背後で音が響いた。
スローティン博士がうっかりマイナスドライバーを落としてしまい、タンパーがコアに完全に接触してしまったのだ。シュレーベル博士が振り返ると青い閃光を目にし、顔に熱を感じたという。1週間後、彼はこの事故について次のように記している。
青い閃光がはっきりと見えた。窓からは光が差し込み、おそらくは天井の電灯も相まって、部屋の照明は十分だったのにだ…閃光の時間はせいぜいコンマ数秒以下だろう。スローティンはさっとタンパーを外した。午後3時ごろのことだ部屋には警備員が駐在しており、スローティン博士の実験内容などつゆほども知らないまま貴重なプルトニウムを見張っていた。だが、コアが光り、そこにいた人が叫び始めると、すぐさまドアから飛び出し、丘の上目掛けて逃げたという。
その後の計算では、核分裂反応はおよそ3,000兆回起きたことが判明している。初の原爆と比べれば百万分の1の核分裂反応ではあるが、それでも相当な量の放射線を放つには十分なものだ。青い閃光は、放射線によって励起した空気中の電子が非励起状態に戻るときに放出される高エネルギーの光子である。
被爆しても尚研究を続けるスローティン博士
直ちに救急車が呼ばれ、ほとんどの職員も避難した。だが救急車が到着するまでの間、研究者は被爆した放射線の量を推定しようとしていた。
スローティン博士は事故が発生した瞬間の関係者の立ち位置をスケッチした。また放射線検出器でブラシやコカコーラの空き瓶など、コアの周りにあった様々なものを計測しようと試みている。しかし、検出器自体がひどく放射線を浴びていたため、正確な値を測ることは難しいことが分かった。
そこで同僚の1人に指示して、放射線を検出するフィルム付きのバッジを周辺に設置させることにした。これは依然として加熱しているコアに近づくために必要なことであった。だが、この試みも結局はそれほどの意味はなかった。後の報告書には、これほどまで大量に被爆した人間が「理性的な行動をとれるような状態にない」ことを示す証拠であるとして言及されている。
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スローティン博士
実験に立ち会った関係者はロスアラモスの病院に搬送された。スローティン博士は検査前に1度嘔吐し、その後数時間でも何度か嘔吐を繰り返している。だが翌朝までには落ち着き、容体はどうにかなるように思えた。しかし左手にはチクチクとした痺れがあり、徐々に痛みを伴うようになっていった。
左手はタンパーを持っていた手で、後に1万5,000レム以上の低エネルギーX線に暴露していたと推定されている。また全身にはおよそ2,100レムの中性子、ガンマ線、X線を浴びたと推定された(人間の致死量は通常500レム)。手は徐々に青白く変色し、大きな水ぶくれができ始めたため、医師によって氷で冷やされた。ドライバーを持っていた右手も多少はマシだったものの同じ症状を呈していた。 スローティン博士はカナダのウィニペグに住んでいる両親に電話した。彼らが到着したのは事故から4日後のことだ。そして5日目になって、博士の白血球の数値が激減した。体温と心拍数も不安定になり始める。「この日から、容体が急激に悪化した」とカルテには記載されている。スローティン博士は吐き気と腹痛に苦しめられ、体重も減り始めた。その内部被曝によるやけどについて、ある医師は「三次元の日焼け」と評している。
7日目、意識の混濁が見られるようになった。唇は真っ青で、酸素テントに入れられる。やがて昏睡状態に陥り、事故から9日目に亡くなった。35歳だった。遺体は軍の棺に納められて、ウィニペグへ船で運ばれた。
スローティン博士は軍の統制下にあったロスアラモス研究所で放射線に被曝して亡くなったわずか2名のうちの1人だ。その黎明期に当たる1943~1946年には、20名以上が亡くなっており、その死因は様々だ。しかしマンハッタン計画に起因する放射線事故で命を落としたのはスローティン博士とハリー・ダリアン博士だけだ。この事故の9ヶ月前、ダリアン博士は全く同じプルトニウムのコアを使って別の臨界実験を行っており、やはり同様にタングステンカーバイドを落として臨界を引き起こしてしまった。彼は事故から1ヶ月後に亡くなっている。
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スローティン博士の事故以来、ロスアラモス研究所ではそれ以上の臨界実験から手を引いた。とはいえ、実験が危険であることはよく知られていたことであり、エンリコ・フェルミなどはスローティン博士に実験を続ければ、「一年以内に死ぬぞ」と警告しているほどだ。
しかし第二次世界大戦という緊迫した情勢においては、安全性よりも、成果が求められた。手作りの臨界質量を持つ物質には、綿密な検討などされることなく必要に応じてさっと手が加えられた。しかし、スローティン博士が亡くなった頃には、そこまで急ピッチで物事を進める必要はなくなっていた。冷戦期、大方の懸念を他所に、実験はゆっくりとしたペースに落ち着いた。事故から間もなくして記されたレポートには、以降の実験は遠隔操作を採用し、よりリベラルな目的のために行われるべきであることが示唆されている。
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スローティン博士とダリアン博士が命を落とすことになったプルトニウムの塊にはもともと「ルーファス」という愛称が付けられていた。だが事故以来デーモン・コア(悪魔のコア)と呼ばれるようになる。皮肉なことに、広島と長崎で数万人の人々の命を奪った爆弾にそうした非難を込めた蔑称はない。その違いは、ひょっとしたら意図的な殺戮と不慮の事故の差にあるのかもしれない。片や大量虐殺を目的として組み立てられたものであり、片や単なる実験器具でしかなかったのである。
事故発生前、ロスアラモス研究所はデーモン・コアをマーショル諸島のビキニ環礁に輸送し、戦後初の核実験とあるクロスロード作戦の一環として大勢の眼の前で起爆される予定だった。だが事故後も依然として放射線を発し続けるデーモン・コアは時間をかけて冷却する必要があった。こうして使用されるはずだった第三回目の実験の予定は中止された。ロスアラモス研究所の記録によれば、デーモン・コアはあっけない終わりを迎えている。1946年の夏に溶けてしまったのだ。
via:newyorker/ translated & edited by hiroching
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