『真田丸』の舞台秘話! 男と城の“衝撃エピソード” (4/4ページ)

日刊大衆

そのため、武闘派の加藤清正(新井浩文)ら同僚武将からはバカにされていた。<三成に過ぎたる物が二つあり島の左近に佐和山の城> これは、“頭でっかちの弱者のくせに、佐和山城という立派な城と百人力の家臣・島左近というもったいない2つを持っている”という意味の、当時流行った三成を皮肉った歌である。勉強はできるが、運動オンチな秀才タイプ。そんな評価を覆すため、忍城を華麗に落とすことを目論み、かつて秀吉が用いて世間をあっと言わせた「水攻め」を試みるのだ。しかし――。

 気になる結果は、ぜひドラマでご覧いただきたい。小田原城はというと、半年の完全包囲を経て落城する。北条家が援軍として頼みにしていた政宗が、小田原在陣中の秀吉の元に参陣して服属。これ以上の抵抗が不可能になったのだ。この間、小田原城内では「城外への出撃決戦派」と「さらなる籠城派」に分かれて会議が繰り返し行われたが、結論が出ないまま終戦となった。このときの様子から、「小田原評定」という言葉が生まれたのだ。この勝利で秀吉の天下統一が事実上、達成される。

 これ以降の攻城戦で最も有名なものと言えば、大坂城を徳川方が攻め、信繁の名を高めた大坂の陣だ。信繁は、堅固な大坂城からニュッと突き出た形の攻撃拠点として真田丸を築くのだが、その築城技術は、まさに武田信玄流。実は父の昌幸は信玄の側近中の側近で、その軍術や築城術を直に学んでいた。

「武田家の本拠は、躑躅ヶ崎(つつじがさき)館(山梨県)という簡素な館で、信玄の“人こそが城”という考えに基づくものでした。しかし、後を継いだ勝頼の代に本格的な城が必要となり、昌幸が築城を任されます。そしてできたのが新府(しんぷ)城。上田城もそうですが、それぐらい昌幸の築城技術は高く、信繁にも受け継がれていたんです」(郷土史家)

 さらに、信繁は上杉家の人質にもなった経歴から、その居城である春日山(かすがやま)城(新潟県)も見聞しており、「カリスマ武将・謙信の居城でありながら、それとは裏腹に何かに怯えているような縄張りなんです。実は謙信の政権基盤は常に不安定で、大坂の陣の際の豊臣家も同じ状態。真田丸を築いた背景には、城内の派閥抗争に嫌気がさしたこともあったのでは」(前同)

 現在、春日山城には目に見える当時の建物はない。躑躅ヶ崎館もそうだし、大坂城もそうだ。しかし、随所に遺構は残っており、男たちの自信と不安が見え透けるようだ。

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