古代ローマの奴隷制度に関する10の事実
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現代人の目からは、奴隷は到底支持することができない制度である。今行えば、人間をお金で売買するなど非人道的かつ非倫理的であると非難される。しかし古代ローマ人にとって、奴隷は至極当たり前の風景であり、きちんと社会の枠組みの中に織込まれていたのだ。
ここで紹介するのは、そんな奴隷制度に関することだ。
・10. 奴隷の人口
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古代ローマ社会には数多くの奴隷が存在した。一説によれば、紀元前1世紀末にイタリアで暮らしていた自由民人口の90%が、奴隷の子孫なのだそうだ(McKeown 2013)。
その数が非常に多かったことから、奴隷制度の潜在的な危険性について触れた者もいる。セネカはこう記している。「かつて議会で、奴隷には自由民と別の服を着せ区別するべき旨の提案があった。しかしそれがいかに危険なことなのかすぐさま認識された。仮に奴隷が我々の数を把握したとしたら……」と。
最近の研究では、共和制ローマ末期において、イタリアには約200万人の奴隷がおり、自由民と奴隷の比率は1対3だったと推定している(Hornblower and Spawforth 2014)。・9. 奴隷の反乱
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ローマの歴史には、奴隷による反乱が数多くあったことを示す記録がある。エウヌスというシリア人奴隷は、紀元前135~132年までシチリアで奴隷を率いて戦った人物の1人だ。エウヌスは自らを予言者と称し、不思議な幻視能力があると触れ回っていたらしい。
シケリアのディオドロスによると、エウヌスは仲間を説得するために、口から火花や炎を吐き出す手品を使っていたそうだ。反乱はローマ軍によって鎮圧されるが、これはさらに紀元前104~103年にシチリアで起きた別の反乱の引き金となる。だが、おそらくもっとも有名なものは紀元前73~71年にかけて起きたスパルタクスの反乱だろう。反乱軍は数万から数十万にまで膨れ上がったという。・8. 割り当てられる仕事で運命が左右される
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奴隷たちの生活環境は様々であった。割り当てられる仕事によって大きく変わり、農夫や炭鉱夫などの過酷な労働に従事する奴隷は、悲惨なものだった。
特に炭鉱夫の悲惨な状況についてはプリニウスが伝えている。「山には松明で照らしながらトンネルが掘られる。炭鉱夫は松明が消えるまで坑道から出ることを許されず、数ヶ月の間日の光を見ることもなかった。(中略)突然亀裂が走り、炭鉱夫を押しつぶした。これで海の底に潜っての真珠や紫貝の採取はいくぶん安全になったようだ。我々はかくも危険を冒して乾いた大地を作りだしたのだ!」
反対に家事手伝いの奴隷は多少は人間的な扱いを期待することができたし、場合によってはお金や財産を手にすることもできた。この財産はペクリウムと呼ばれ、法的には主人によって所有が認められた私有財産のことであった。つまり早い話が、奴隷は自分の好きなようにお金を使用できたということだ。
そして十分な財産を築くことができた奴隷は、自らの自由を買うこともできた。そうした奴隷は解放奴隷と呼ばれ、奴隷とローマ市民の中間の立場にあった。・7. もっとも有名なローマの奴隷
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トラキア系のスパルタクスはおそらくもっとも有名なローマ時代の奴隷だろう。彼は紀元前73年に78人の奴隷を連れてカプアの剣闘士養成所から脱出し、ローマ社会の不平等を利用して、数千人もの奴隷や貧困層を集めた。
スパルタクスの一党は2年にわたりローマ軍を相手に戦った。フロンティヌスによれば、スパルタクス軍は死体を杭に結びつけ、武器を持たせたという。遠くから見た場合、軍が実際よりも大きく、かつ統制がとれているかのように見えたようだ。
しかし最後はクラッススによって鎮圧され、スパルタクスも殺された。彼に付き従った6,000人もの奴隷たちは道沿いに磔にされたという。だが彼の名と偉業はその後もローマ人の記憶の中に刻まれた。今日でさえ、数多くの小説やドラマなどの題材として登場する。・6. 奴隷の所有
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ローマ市民にとって、その社会的身分にかかわらず奴隷の所有は一般的なことだった。かなり貧しいローマ市民であっても奴隷の1人や2人は所有していたほどだ。ローマ支配下のエジプトにいた工匠は、2、300人もの奴隷を所有していたという。富裕層であればそれ以上だったろう。例えば、ローマ皇帝ネロの邸宅では400人もの奴隷が働いていた。さらに資産家で知られたガイウス・カエキリウス・イシドロスは死の間際に4,166人の奴隷を所有していたという記録が残されている(Hornblower and Spawforth 2014)。・5. 奴隷の需要
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ローマの奴隷需要はいくつもの理由のために非常に高かった。唯一官公庁を除けば、ほぼあらゆる場面で奴隷が使われた。炭鉱をはじめとする過酷な作業においても非常に需要が高く、働き手は奴隷でまかなわれた。
また家事と農業も奴隷が重宝された代表的な仕事だ。ローマ時代の農業に関する手引きの多くには奴隷の管理方法について記載されている。共和制ローマの学者ウァロは、『農業論』の中で危険な場所では自由民を採用するよう説いている。その心はこうだ。自由民が死んだ場合とは違って、奴隷が死んでしまうと経済的な損失だからである(Hornblower and Spawforth 2014)。・4. 奴隷の供給
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奴隷の供給源としては主に4つの手段があった。戦争捕虜、海賊や山賊行為の犠牲者、売買、出産だ。これらは時期によっても異なる。例えばローマ帝国初期の拡大期では、数多くの戦争捕虜が奴隷へと身をやつした。
現在のトルコ南部にあたるキリキアの海賊は主要な奴隷の供給元であり、ローマ人は彼らとも頻繁に取引していた。キリキア海賊は主に奴隷をエーゲ海のデロス島で購入していた。ここは当時の奴隷貿易の中心地であったと考えられている。
記録によれば、あるときには1日に1万人以上の奴隷が取引され、イタリアへ連れて行かれたという。奴隷の入手について、海賊行為と貿易の境界は曖昧だったようだ。・3. 当時奴隷制度が疑問視されたことはなかった
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現代人は奴隷を非倫理的で、非人間的な制度と考える。だが、ローマ社会において奴隷制度が特に疑問視されたという証拠はない。当時の経済、社会、法的な力によって制度は存続させられた。
奴隷はローマ市民の対極にあり、社会的なバランスをとるために不可欠であると考えられていた。自由と奴隷は1枚のコインの両面のものだったようだ。奴隷の生活環境に配慮するいくぶん人道的なルールが導入されてもなお、奴隷の使用自体が減ったということはない。ただ健康的になったというだけだ(Hornblower and Spawforth 2014)。・2. 奴隷の脱走
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奴隷の脱走は主人らの共通の悩みであった。これを捕まえる専門の業者もいたほどだ。また脱走奴隷を捕獲した者に賞金を出すこともあった(Hornblower and Spawforth 2014)。
さらに面白いのは返却先の住所を記載した首輪の存在だ。現存する首輪には次のような文面が刻まれている。
「私はアセルス。穀物供給局の官吏プラエフェクトゥスの奴隷である。持ち場から逃げてきた。逃亡奴隷であるゆえに捕獲を願う。返却はフローラ聖堂付近の床屋まで」(McKeown 2013)・1. 奴隷の自由
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奴隷の主人は奴隷に自由を与えることもできた。これを解放という。奴隷の忠誠や貢献に対する褒美として与えられることもあった。あるいは給金を貯めた奴隷が自らの自由を買うこともあった。場合によっては、その方が都合がいいので解放する場合もあった。
最後のケースの例としては商人が挙げられる。彼らは自分の代理人として契約を交わし、取引を行う人間が必要となる。しかし法的には、奴隷には主人を代理する権限が与えられていないのだ。
via:10 Interesting Facts About Slavery In Ancient Rome・ translated & edited by hiroching
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