人が動く! 人を動かす! 「田中角栄」侠(おとこ)の処世 第27回 (2/2ページ)

週刊実話

ただ、これもこの国の水資源の必要性を感じたがためのものであったとご理解いただければ」と。ウルサ型で鳴っていた重政はこの“わび状”に感心、以後、田中とは胸襟を開く間柄となったのだった。ここでは田中の粘着質でない性格、「目配り」の確かさが光ったということでもあった。粘着質のリーダーは同僚、部下が敬遠しがちとなり、ともすれば大成への道を閉ざすことにつながりかねないとの教訓でもある。

 こうした「田中あり」を存分に見せつけた男は、36年7月、第2次池田内閣の成立を機に晴れて党3役の一角、自民党政調会長になった。田中にとっては、このポストに就いたことでやがての天下取りへ視野が開け、ついに「王道」としての第一歩を踏み出すことができたということであった。天下取りへの「王道」とは、どういうことだったのか。ここから先は、何としても裏方、寄り道はしないぞということだった。
 これまで田中には何度か当時の党7役だった国対委員長や組織委員長への就任要請が来ていたが、そのたびに断わりを入れていた。田中は何とかして党3役入りを熱望、とりわけまずは国家予算の編成に党側からの影響力を持つ政調会長をやり、その後、大蔵大臣などの重要閣僚を務め、さらに総理・総裁に不可欠な幹事長ポストを経るという「絵」が描かれていたということだった。当時は昨今と違い、天下取りには幹事長ポストを踏むことが必須条件でもあったのだ。後年、これを振り返れば、政調会長をまずやり、その後、大蔵大臣や幹事長を経てという天下取りへの「王道」戦略は、見事に実現されることになるのである。
 この裏では、田中の絶対の自信、そのためには万難を拝して周囲の強い支持を得るという覚悟も窺われた。巧み巧まざるの「情と利」による人心収攬の妙も発揮、強大な支持基盤をつくるぞという覚悟であった。それも、後年、見事に実行されたのである。

 と同時に、この政調会長ポストでの身の引き締まりぶりも、それまでとは一変した。「二人三脚」で歩んできた佐藤昭子は、それまで党3役の歴史の中で女性秘書はたった一人だけだったが、党本部の政調会長室詰めの二人目の女性秘書となった。この頃には、それまで「佐藤さん」と呼ばれていたのが、「ママ」と呼ばれるようになっていたのだった。
 田中が実力者の階段を上がるにつれ実力秘書への見方、佐藤への周囲の目も変わったということである。
 しかし、田中は佐藤にこうクギを刺すのも忘れなかった。
 「いいか。女が出しゃばるとたたかれる。気を付けてくれ」
(以下、次号)

小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。

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