福岡県の犬鳴山の中にある幕末期の「旅人墓(どじんばか)」を調べてみた (2/3ページ)
この地に製錬所を設けたのは、たたら場の燃料になる木炭用の木材は豊富で、犬鳴山並びに近在の畦町・本木(共に現・福岡県福津市)の土壌には、良質の砂鉄が豊富に存在していたこと、そして犬鳴山周辺よりも砂鉄が多く採れる芦屋(現・福岡県遠賀郡芦屋町)にも近かったためであると考えられる。
しかし、「鉄を吹出すこと許多なり」だったにもかかわらず、1857年に大鑪屋館が真砂子(現・北九州市八幡西区)に移されることとなり、廃絶された。その後、現在金山と呼ばれている場所で鉄山仕組が1859年に開始されるが、1864年に再び廃絶される。
■「旅人墓」とは製鉄所で働いた人達のお墓
このような犬鳴山中における製鉄の営みをあかしするのが、地元の人から「旅人墓」と呼ばれている墓所である。金山奥の山の中腹に8基、もうひとつは穴蔵口と呼ばれるところに6〜7基の存在が知られている。
2015年9月に筆者が訪れた金山地区にある「旅人墓」は、やや南にのびた尾根上の平地に2段になって形成され、下段には墓石が約8基あり、銘がある墓石が3基(俗名1:為衛門・2:浦右エ門子榮太郎・3:徳太良)、他は自然石が立てられていた。上段は約85cm×80cmの石囲みの墓域をもった墓が2基あり、ともに自然石を立てているが、そのうち1基(俗名4:良助)に銘がある。建立時期は1861年から1863年であり、金山地区における鉄山操業時と一致する。そのような「旅人墓」は、触れると祟るというので、鉄山廃絶後から現在に至るまで、誰も祀る人はいなかったという。
何故、これらの墓が「旅人墓」と呼ばれていたのか。それは単純に「リョジン」が「ドジン」と、人の口に上るうちに簡略化されていった。または、郷土史家の小方良臣によると、たたらの民は「炉」の人、「ロジン」が「ドジン」と訛ったとも考えられるとのことだった。
犬鳴山中の人々に限らず、一般にたたらの民は、土地に先祖代々根づいてきた農民たちから一段低い者と見られ、近年まで差別されることが多かった。江戸期においては、藩の統制下で操業されていたこともあるが、彼らは山から降りて、ムラの共同体に混じり込むことは決してない。あくまでもよそから来た、何者かも、何をしているのかもわからない「旅人」だったのだ。