週刊アサヒ芸能「創刊60年の騒然男女」スポーツ界「波乱のウラ舞台」<ゴルフ篇/強烈「ライバル争い」>(2)青木・尾崎と死闘を繰り広げた中嶋常幸の練習法

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週刊アサヒ芸能「創刊60年の騒然男女」スポーツ界「波乱のウラ舞台」<ゴルフ篇/強烈「ライバル争い」>(2)青木・尾崎と死闘を繰り広げた中嶋常幸の練習法

 この2人に割って入ったのが、中学・高校のアマチュア時代、父親の超スパルタ特訓を受けた中嶋である。雨の試合を想定して、扇風機で飛ばした水を浴びながらの練習や、腰につけたタイヤを引きずっての坂道ランニング‥‥。

 75年にプロ入りした中嶋は、翌年のゴルフダイジェストトーナメントでいきなり優勝し、天才ぶりを発揮した。77年には日本プロ選手権で、戦後最年少記録となる22歳で優勝。以後、AOとの三つ巴の戦いが歴史を彩った。

 中嶋にも、AOに勝るとも劣らないエピソードがある。76年、秋田県の男鹿GCで行われた関東プロ選手権。ここで新人の中嶋と、当時はAOと並ぶ強豪の村上隆(72)が激突した。村上は前年に日本オープン、日本プロ、日本マッチプレー、日本シリーズの4つのタイトルを獲得した、飛ぶ鳥を落とす勢いのグランドスラマー。試合は村上の優勝で決着したが、2位に終わった中嶋は、悔し紛れにインタビューでこう答えた。

「村上さんは今がピークの人。近い将来に、僕があの人に代わって天下を取る」

 この言葉はのちに、現実のものとなる。海外4大メジャー全てでトップ10入りを果たしているのは、中嶋ただ1人である。

 中嶋は晩年になっても、猛烈なトレーニングを敢行した。冬場の合宿をよく行う群馬県のゴルフ場。筆者がそこへ取材に行った時のことだ。隣接する、まだ雪が残る岩山を中嶋は素手でよじ登り、縦走し始めた。同行した若手記者とカメラマン、弟子やマネージャーたちは全員脱落。筆者だけが最後までついていった。私は中嶋に「なぜこんなトレーニングをするのか」と聞くと、こう答えた。

「体のバランスをよくするためだ。それと、足裏の感覚を鋭敏にしておくため。芝生を踏むと、(傾斜や芝の具合など)体がそれを感じ取るから」

 まさに型破り。動物的トレーニングなのだった。

 ここで尾崎の話に戻ろう。光が強ければ、影も濃い。栄華を極めた尾崎の賞金王12回、ツアー通算113勝は、未来永劫破られることのない大記録。だが、誰も到達できない頂点に立った尾崎はその後、転落の一途をたどる。88年には広域暴力団組長との交遊が暴かれる。不動産投資などで推定50億円の負債を抱えると、05年に民事再生法の適用を申請して破綻。家族離散という不運に見舞われる。栄枯盛衰を、身をもって味わったのだった。

 一方、国際的という点ではるかにスケールが大きいのが、女子ゴルフである。

 77年、衝撃的なニュースが飛び込んできた。米ノースカロライナ州ベイ・ツリー・プランテーションで行われたメジャーの全米女子プロゴルフ選手権で、樋口久子(70)が初優勝したのだ。アジア人に優勝をさらわれたとあって、米国人プロもファンの落胆も大きかった。

 樋口の快挙から10年後の87年、米ツアーで年間4勝を上げて賞金女王争いを繰り広げていた岡本綾子(65)が、日本で行われていた米LPGAツアー最終戦のミズノクラシックで、賞金女王が確定したのだ。日本の地で大挙出場した欧米のプロが岡本を胴上げし、それを遠巻きで見守る日本の女子プロたち、という不思議な光景だった。

 ゴルフマスコミの間ではいまだに「日本人男女通じてただ1人のメジャー優勝をした樋口と、米ツアー18勝を上げて賞金女王まで獲得した岡本のどちらが上か」の論議があとを絶たない。2人の記録は恐らく今後、(日本人プロに)破られることはないだろう。

 70年代から90年代にかけて大きな足跡を残したAONは、3人による賞金王が計19回、通算勝利数は217。約30年にわたってプロゴルフ界を牽引してきたことが、この数字でも一目瞭然である。そして、日本人として前人未踏の海外記録を打ち立てた樋口と岡本。韓国人プロに蹂躙され、小粒で覇気のない昨今の日本人プロに、かつてのこの5人のような栄光が戻らないかぎり、ゴルフ人気の復活はありえない。

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