死装束としての「経帷子」は、案外新しい時代に取り入れられていた (2/2ページ)
■「最高の正装」をして埋葬という風習は広く一般的に存在していた
将軍や大名、あるいは特に高位の家老といった、より上流の武家の当主は、信仰する宗派を問わず、亡くなるといわゆる衣冠束帯姿など、「自分の身分での最高の正装」姿で埋葬されることが一般的になった。これは、彼ら貴人が死後に「神」となった際の衣装も、イメージされている面もあるだろう。
この動きは、もう少し身分の低い武家や庶民でも同様であった。例えば、これは若干都市伝説化している例だが、高度経済成長期に東京の築地の再開発が進んだ時、江戸時代の墓の跡から、偶然一種のミイラとなった遺体が出土した。その中には、振袖を着た若い女性の遺体もあったという。彼女も、いわば「自分の身分での最高の正装」姿で葬られたわけである。
■江戸時代の終わりになると経帷子らしきものが使われるようになった
江戸時代も終わりに近づいた1822年、今の山形県南部の米沢藩の藩主であった上杉治広が亡くなった。米沢藩主はいわゆる大大名でなかったので、治広は衣冠束帯姿ではなく、烏帽子に直垂という、やや身分の低い貴人の正装姿で埋葬された。そして、彼の棺には、現代に近いタイプの経帷子1セットも納められた(この点は、経帷子の近年の扱い方に似ている)。なお庶民層でも、地域や宗教宗派によって違うが、同じ頃から、現代の経帷子に近いものが使われるようになってきた。
江戸時代も後半の19世紀の始め頃になって、上流層・庶民層共に、死装束に経帷子が少しずつ採用され始めた理由は、まだはっきりとはわかっていない面も多い。ただ、死者に経帷子が着せられるようになったのは、実はそれほど古い時代ではないということは、確かなことであろう。
参考文献:葬送儀礼と装いの比較文化史 装いの白と黒をめぐって、 東京骨灰紀行