【プロ野球】《惜別・野球人2016》いぶし銀、名スカウト、野武士……。今年もまた別れの季節が (2/3ページ)

デイリーニュースオンライン

■4月23日:元ロッテ監督・山本功児氏が死去

 巨人、ロッテでプレーし、ロッテでは監督を務めた山本功児氏が肝臓がんのため死去した。64歳の若さだった。

 「強打の一塁手」の評価を受け、1975年ドラフト5位で巨人に入団。しかし、当時はまだ王貞治の円熟期。試合に出られない日が続いた。また、広島戦ではミスター赤ヘル・山本浩二との比較で「偽こうじ」という心ないヤジが飛ぶことも。

 だが、出場すれば結果を出し、巨人第43代4番打者として出場した7試合で、2本塁打、打率.379。また、代打としても活躍し、巨人の代打打率歴代1位となる打率.274を記録した。1984年にロッテに移籍すると、2年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。いぶし銀プレーヤーとして、その実力を見せつけた。

 引退後はロッテでコーチと2軍監督を担当し、1999年から2003年までは1軍監督。監督在任中に結果こそ残せなかったが、若手の台頭を促し、2005年のロッテ日本一につなげた。

■5月13日:元日本ハム・工藤幹夫氏が死去

 日本ハムで最多勝と最高勝率のタイトル獲得したこともある工藤幹夫氏が、肝不全のため秋田市内の病院で死去した。55歳だった。

 1982年に20勝4敗、防御率2.10で最多勝、最高勝率、ベストナインを獲得。またこの年のプレーオフでは、直前に右手小指を骨折し、出場が絶望視されながらマウンドに上がる奇襲作戦でも話題を呼んだ。だが、この無理がたたったのか、翌1983年に右肩を痛め、1988年には野手転向。再起を目指したが1軍出場は叶わず、同年限りで引退した。

 実働はわずか5年。だが、ダルビッシュ有も、大谷翔平も成し得ていない「日本ハム最後の20勝投手」として球団史に確かな足跡を残している。

■5月30日:元阪神監督・後藤次男氏が死去

 阪神OBで最高齢だった後藤次男氏が老衰のため死去。92歳だった。

 熊本工業、法政大学を経て1948年に大阪タイガースに入団。2年目から4年連続打率3割をマークするなど、好打者として活躍。949試合に出場し、通算打率は.283。また、引退後は阪神で監督を2度(1969年、1978年)務め、1969年は2位、1978年は球団史上初の最下位を味わっている。温厚な人柄から「仏のクマさん」の愛称で慕われた野球人だった。

■8月14日:野武士・豊田泰光氏、死去

 水戸商業では主将として1952年の夏の甲子園に出場し、選手宣誓も担当。西鉄黄金期を支えた豊田泰光氏が肺炎のため死去した。81歳だった。

 1953年に西鉄(現西武)に入団すると、高卒新人ながら打率.281、27本塁打で新人王を獲得。1956年には打率.325で首位打者に輝き、MVPも受賞。1968年には史上初の2試合連続代打サヨナラ本塁打を放つなど、強打の遊撃手として活躍した。

 また、現役引退後も辛口の批評で存在感を示し、「オレが許さん!」などのコラムも人気を集めた。

■9月17日:元ロッテ監督・山本一義氏、死去

 現役時代は広島で活躍し、ロッテの監督も務めた山本一義氏が尿管がんのため広島市の病院で死去した。78歳だった。

 広島商業から法政大学を経て1961年、広島に入団。当時は万年Bクラスの広島で長らく4番を務め、1975年、広島のリーグ初優勝を見届けて現役引退。引退後は広島などでコーチを歴任し、ロッテで1982年から2シーズン監督を務めた。

 今季25年ぶりにリーグ優勝した広島の盛り上がりに配慮し、約半月後の公表となった。

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