「芸能界の都市伝説」これが真相だ!<ドリフ加入をいかりや長介に口説かれた桑田佳祐> (2/3ページ)
70年代前半はコンサート会場で「帰れ!」と野次を飛ばす客も多かったが、拓郎は最大の標的。
「じゃあ、帰ります」
1曲も歌わずに帰るという“抵抗”だった。
拓郎と並ぶ大物が井上陽水だが、再三の紅白歌合戦の出演依頼に、たったひと言だけ断りを入れる。
「恥ずかしいから」
スケジュールうんぬんではなく、恥ずかしいと言い切ってしまうのが陽水流の美学なのかもしれない。
そして陽水に続き、日本のリバプールと呼ばれた博多から次々と新しいアーティストが台頭する。チューリップを率いた財津和夫の音楽的評価は高いが、一方で博多の街ではこうも呼ばれていた。
「財津は引き抜き屋」
温厚に見えるが、理想の音作りのためには、気になるミュージシャンに声をかける。そのため、引き抜かれたバンドは解散、もしくは方向性をガラリと変えてしまうことが多かった。
武田鉄矢が率いた海援隊も、ドラマーを引き抜かれたため編成を変えた。そんな武田は拓郎の「流星」という曲がお気に入りで、高級クラブで歌うと、ホステスたちにこう告げている。
「これは拓郎さんじゃなく俺が作った歌」
他人の歌をも自分のものと信じ込ませてしまう金八先生の話術なり──。
博多組の最後は甲斐よしひろで、甲斐バンドとしてデビューを決めるきっかけになったコンテストの優勝直後、悲劇は起こった。
「カップヌードルをお風呂で作ろう」
優勝の副賞として大量にカップヌードルをもらったが、ホテルの部屋に湯沸かし器がない。それならバスタブに入れて、お湯でいっぺんに──。バスタブが油まみれになり、大目玉を食らったことは言うまでもない。
博多から北海道に飛ぶと、やはり代表は松山千春ということになる。