日本国民にとって忘れられない3月11日は私の母の命日でもある

心に残る家族葬

日本国民にとって忘れられない3月11日は私の母の命日でもある

3月11日と言えば、日本では絶対忘れてはいけない重要な日だが、私にとってもとても重要で、決して忘れることのできない日だ。何故ならそれは私の母の命日でもあるからだ。
母は今から九年前の3月11日にこの世を去った。家の中で倒れているところを発見され、病院に担ぎこまれたのだが、私と妹が駆けつけたときにはすでに意識は無かった。くも膜下出血のような症状の病気で、とても覚えきれない程、長くてややこしい病名だった。

■「呼びかけてください」と言われたけど中々出来るものではなかった

看護師さんが「大きな声で呼びかけてあげて下さい。反応はありませんが、聞こえてますから」と、ドラマチックなことを言ったが、いやあ、なかなか出来るものではない。やろうと思えば思う程に、冷静になっていく自分を感じて、なんて冷たい人間なんだろうと悲しくなった。そして、周りの誰にも聞こえないように、母の無表情な顔に向かって、そっと呼びかけてみた。「お母さん、久しぶり。来たよ」

■母と私の関係性

私が中学生に上がったばかりのある日、母は突然家族をおいて、一人で出て行ってしまった。両親の間で何があったのか、その時は分からなかった。ただ、仲のいい夫婦では無かったので、幼くてもきっといつかは破綻するだろう、くらいの予想はついていた。だから、母がいなくなった時には、ああ、なるほどね、そう来たか、くらいの意識でしかなかった。

母は家を出た後、大阪を離れ東京へと移り住んでいた。出て行ってしばらくしてから、私宛てに電話があり、父には内緒で時々会うようになっていたので、都度、現況は把握していた。この時、母は千葉の古くて小さなアパートで一人暮らしをしていた。

■結局、意識は戻らずに亡くなった母

母の身にはその後、期待するような奇跡は起こらず、意識が戻らないままあっけなく死んでしまった。そして、身寄りの無い母の遺骨をどうするかという切実な問題が浮上してきたのだ。

母の兄弟たちは信じられないほど薄情で、感情表現が下手くそな私の冷酷さなんて頗るかわいらしいものだった。結局、遺骨は私たち姉妹が大阪に持ち帰ることにした。もちろん、実家のお墓に入れることは出来ないので、天王寺にある一心寺という寺院に永代供養を頼むことにした。

■永代供養で母を弔った

ちなみにその時まで「永代供養」という制度が存在したことを知らなかった。永代供養はいくらか納めると毎年、年忌のご回向をしてもらえる。一心寺の場合、それと併せて納骨をし、お骨佛を造立してもらうことで、私たちのように何らかの事情でお墓を立てることの出来ない人たちのために供養出来るような仕組みになっているのだ。

私たちは永代供養で十万円を支払った。すると、その後三十三年間、年忌の際に毎年葉書が送られてくる。私たちは命日の3月11日までに寺院へ赴き、ご回向をしてもらう。もし行けなくても、その日になれば代わりにしておいてくれる。お骨佛は冥加料として一万から三万円を支払うと、そのお骨で阿弥陀如来像を造立してもらえる。十年に一体造るということで、母の遺骨は来年、阿弥陀如来となる。

乳白色の柔らかな風合いの阿弥陀如来像は、誰かの骨の集合かと思うと不気味ではあるが、母の遺骨が入ったら、見える風景も少しは変わるのかも知れない。

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