【プロ野球】《センバツトリビアPart 1!》坂本九×人見絹枝×象×背番号=センバツ? (2/2ページ)

デイリーニュースオンライン

■背番号、プラカード先導、校旗掲揚・校歌斉唱……センバツから始まったものアレコレ

 センバツならではの制度、といえば、なんといっても2001年(第73回大会)から始まった21世紀枠。ただ、この制度以外にも、実はセンバツで始まったもの、実験的に始まって根づいたモノは意外と多い。

 たとえば、上述した入場行進で、校名プラカードによる先導が始まったのは1929年の第6回センバツ大会から。これは前年の1928年、アムステルダム五輪に出場して銀メダルを獲得した人見絹枝のアイデアとされている(※人見はセンバツ主催者である毎日新聞社の社員でもあった)。

 五輪の舞台で自身が感動した演出方法を参考に、センバツに反映したわけだ。同様に、人見の発案により、この大会から勝利チームによる試合後の校歌斉唱・校旗掲揚も始まった。

 また、日本の野球シーンにおいて、はじめて背番号が導入されたのは1931年の第8回センバツ大会から。広い甲子園球場において、どの選手がどこを守っているのか認識しやすくするため、とされている(※ただし、翌年以降は再び背番号なし)。

 このほかにも、高野連連盟旗の掲揚(1949年・第21回大会)、事故防止のための耳付きヘルメットの義務化(1972年・第44回大会)など、センバツがキッカケで始まったものは多い。野球界に新しい風を送るのがセンバツの役割のひとつ、ともいえるだろう。

■女性の機転で今があるセンバツ甲子園

 今大会のトピックスとして話題になったのが、甲子園練習における女子マネージャーの練習参加解禁だ。「今さら?」という感も否めなくはないが、エポックな出来事であるのは間違いない。

 ただ、過去を振り返れば、女性の活躍があって甲子園の今がある、と言いたくなる出来事は多い。戦後最初に行われた1947年の第19回大会開催に至るまでのエピソードで女性が重要な役を担っていた。

 夏の甲子園はこの前年、1946年に復活していたが、開催球場は西宮球場。甲子園球場は当時、GHQに接収されており、使用することは叶わなかった。

 だからこそ、聖地・甲子園球場での開催を目指して、センバツ大会の復活に向けた動きがスタート。主催者である大阪・毎日新聞社が阪神電鉄の協力を得ながらGHQに働きかけ、一時は大会復活が認められた。

 だが、文部省の正式な許可を先に受けていなかったことやGHQ側の意向(「新聞社が主催する大会はおかしい」など)もあり、すでに出場校も決まっていた1947年3月に文部省から大会中止の通達が届いてしまう。

 この窮地を救った一人、とされているのがGHQの通訳を担当していた三宅悦子。首を縦に振らなかったGHQのノーヴィル少佐に「あなたが大会を中止させたら、日本人に一生恨まれますわよ」と伝えたのが契機となったのか、「中止には時間が足りない」と態度が軟化。こうして、甲子園に学生野球が戻ってきたのだ。

■甲子園史上最大の応援団!?

 甲子園といえば、アルプススタンドを賑わす個性的な応援合戦も見どころのひとつ。その応援スタイルで史上最も物議を醸したのが、戦後間もない1951年の第23回センバツ大会に出場した地元の鳴尾高校だ。当時、甲子園球場と隣接していた阪神パークと交渉の末、なんと本物の象を借りてレフト通路から入場させてしまったのだ。

 さすがに試合が始まる前に象は退場処分となったが、これに怒ったのが当時の高野連副会長の佐伯達夫。「象も借りる方も貸す方も非常識。もし暴れたらどうするんだ!」と烈火の如く怒りをあらわにした。

 ただ、この「象の応援」が効いたのか、鳴尾高校の野武貞次投手が史上5人目のノーヒットノーランを達成。その後も順調に勝ち進み、準優勝という好成績を残している。

 今大会でも、自チームに快進撃を呼び込む素敵な応援を期待したい。

文=オグマナオト

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