ついにWBC決勝ラウンド! 新聞、テレビが報じていない「侍ジャパン」激闘物語

日刊大衆

ついにWBC決勝ラウンド! 新聞、テレビが報じていない「侍ジャパン」激闘物語

 野球の世界一を決める大会「ワールド・ベースボール・クラシック2017」は、いよいよ決勝ラウンドに突入する。第4回大会となる今回の出場チームは16か国。第1回、第2回を連覇し、前回大会は準決勝敗退の日本代表「侍ジャパン」が、世界一の座を奪回できるかどうかが最大の見どころだ。今回は、どのチームも優勝を目指す「本気モード」だ。ここであらためて、過去3大会で繰り広げられた激闘の歴史を振り返ってみよう。

 第1回大会が開催されたのは06年3月。それまで行われていた五輪などの国際大会とは違って、初めてMLB選手の出場が可能となり、野球の実力における国際比較が可能となった。

 日本は、「世界のホームラン王」である王貞治氏を監督に据え、イチロー、松井秀喜などのメジャーリーガーを中心に、日本のトッププレーヤーを集めた文字通りのドリームチームを作ろうと試みた。「しかし、松井秀喜は出場を辞退し、国内組も辞退者が相次ぎました。王監督の思い描いたベストメンバーが招集できず、嘆いていました」(スポーツ紙デスク)

 結局、メンバー31人のうち8人が、前年に優勝した千葉ロッテの所属選手と、少々偏りあるチーム編成になってしまった。しかし、これが逆にチームのまとまりという点では有利に働いた。当時、チームの正捕手だった里崎智也氏は、こう話す。

「周りを見たらロッテの選手ばかりなんで、全然緊張しませんでしたね。他の投手陣も松坂大輔をはじめ、ほとんどがパ・リーグの投手でした。日頃、どんな球を投げるのか見ている投手ばかりだったので、リードしやすかったですよ」

 実は、里崎氏と王監督は、同じ5月20日生まれ。「王さんには、物心ついたときから勝手に親近感を覚えていまして、自分たちの力で世界一のバッターを、今度は監督として世界一にしたいと思ってました」(里崎氏)

 当時の侍ジャパンが目指したのはスモールベースボール。コツコツとつないで1点をもぎ取り、守備の力で、それを守り抜くというスタイルだった。

 中心となったのは、やはりイチロー。「王監督に直々に電話して、代表入りを伝えたイチローは、練習中は常に全力疾走で、それを見た他の選手たちが“イチローさんがやっているから、俺たちもやらなきゃいけない”と、チームがまとまったんです」(スポーツ紙記者)

 3月3日に始まった本大会。1次リーグでは中国、台湾に勝ったものの、韓国に敗れて2位で2次リーグへ。しかし、2次リーグには落とし穴が待っていた。主軸の福留孝介の不調もあり、メキシコには勝ったが、あのボブ・デービッドソン審判の「世紀の誤審」もあって、アメリカと韓国に敗れて1勝2敗。誰もが「準決勝への進出は絶望」と感じた。

 しかし、一人だけ希望を失わない男がいた。王貞治監督その人だ。「正直、俺たち選手は“もうムリやろ”と思ってました。だけど、王さんだけは、“少しでも可能性がある限り準備をしておくべきだ”と力説して、ビデオを見て研究していました。驚きましたよ」(里崎氏)

 そして、なんと2次リーグのアメリカ対メキシコ戦でメキシコが勝利。1勝2敗で並んだ3チームの中で「失点率」の少なかった日本が準決勝に進んだ。

 準決勝の相手は、この大会で3度目の対決となる韓国だ。「大会前の記者会見で、イチローが“(アジアでは)向こう30年は日本には勝てないような勝ち方をしたい”と発言したことにカッとなって、韓国チームは日本戦となると目の色を変えてきていたんです」(前出のスポーツ紙デスク)

 とはいえ、3回も続けて同じ国には負けられない。準決勝では不調のため、スタメンを外されていた福留が、7回0-0で、1死二塁の場面で代打で登場。そこで、値千金の2ラン本塁打を放って日本中を歓喜させた。「その後、上原が韓国打線をシャットアウト。日本代表の思いが込もった好試合で、我々選手にとっても、あの大会で一番うれしかった瞬間でした」(里崎氏)

 日本は、その勢いのまま決勝戦でキューバを撃破。土壇場から世界一に上り詰めた。

 09年の第2回大会は、監督選びの段階から難航した。08年の北京五輪で監督を務めた星野仙一氏が引き続いて監督をやるはずだったが、北京五輪の惨敗が尾を引いて、あらゆる方面から批判を受けた星野氏が最終的に辞退。現役監督は就任させないはずだったが、結局は原辰徳巨人軍監督が代表監督を兼任することとなった。「第1回から協力的でなかった中日が、この大会では選手の供出をボイコットして、大きな問題になりました」(スポーツ紙デスク)

 シーズンのほうが大事という落合監督の方針と「読売の金儲けには協力したくない」という中日・白井オーナーの思惑が一致しての決定だったが、中日の頑なな方針に関係者は失望した。

 それでも、現役メジャーリーガーの松坂大輔、その後、海を渡るダルビッシュ有、田中将大、岩隈久志らを擁した屈指の投手陣は今考えても超豪華。イチロー、城島健司、岩村明憲、福留など野手にもメジャーリーガーを揃えて、盤石の体制で連覇に挑んだ。「日本戦のテレビ視聴率は全試合20%以上を記録したことからも分かるように、国民からの注目は高かった。ただ、自らにかかるプレッシャーに負けたのか、イチローは大会に入って絶不調に陥ってしまいます」(スポーツ紙デスク)

 12打席連続ノーヒットなど苦しみ抜いたイチローは、サインが出ていないのにもかかわらず、送りバントを試みるなど追い詰められているように見えた。

 この大会でも、日本の宿敵となったのは韓国。1次ラウンドや敗者復活戦を含めると、この大会だけで5回も韓国と対戦しているのだが、ペトコパークでの2回目の対戦のときに「事件」が起きた。

 1-4で日本が負けた直後、韓国選手がマウンドに韓国国旗を立てて、日本を挑発したのだ。一部報道では、この非常識な行動に激怒した田中投手が、韓国国旗を抜きに行ったともいわれている。

 しかし、韓国チームのこの行為は、かえって日本チームの闘志に火をつける。09年3月23日に行われた日本対韓国の決勝戦。ここまで2勝2敗とあって、これが正真正銘の決着の戦いでもあった。

「いくら不調になっても、イチローを断固としてスタメンから降ろさなかった原監督の決断が、最後の最後に実を結んだんです」(前出のスポーツ紙記者)

 試合は一進一退の攻防が続き、延長10回表、3対3、2死二、三塁という絶好の場面でイチローに打順が回る。追い込まれながらファールで粘ったイチローは、8球目の直球を真芯で捉えて2点タイムリー。試合後、「イキかけた」と話すイチローが、最後の最後にチームを救ったのだ。

「お前さんたちは本当に強い侍になった」と選手たちを称える原監督。苦しみ抜いた末につかんだ連覇だった。

 13年に開催された第3回も、やはり監督選びが難航し、ようやく12年10月に山本浩二元広島監督の就任が発表される。東尾修、梨田昌孝らが脇を固める体制になった。A組の日本は福岡ドームでブラジル、中国を破ったがキューバに敗れ、2勝1敗で2次ラウンドに進出。台湾、オランダを破って準決勝に進んだものの、6-9でプエルトリコに敗退。3大会連続優勝どころか、決勝進出も果たせず、3位で大会を終えた。

「前の2大会に比べれば、日本人メジャーリーガーが一人も参加しない寂しい構成で、主力選手が若かった。それに比べて、監督もコーチも現役感に欠ける人たちばかり。休日に競艇場に行ったり、酒盛りをしたりで選手と首脳陣には溝ができてしまい、優勝できるほどまとまっていなかった」(スポーツ紙デスク)

 13年大会終了後、侍ジャパンはWBCのためだけに召集されるチームではなく、常設のチームへと変貌し、第4回WBCまでは、小久保裕紀が監督を務めることとなった。今大会は6戦全勝で順調に決勝ラウンドへ勝ち進んだ「侍ジャパン」。過去3大会にあったような死闘になったとき、試合をものにできるか。それは小久保監督にかかっているかもしれない。

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