出会いや別れ、お花見等多くの象徴である桜だがその中には「死」も含まれる

心に残る家族葬

出会いや別れ、お花見等多くの象徴である桜だがその中には「死」も含まれる

「願わくば花の下にて春死なむその如月の望月の頃」ーー西行法師の歌である。西行法師は桜を好み、満開の季節に吉野山に滞在していたこともあったとか。他にも桜を題材にした歌を多数詠んでいる。ちなみに俳句の季語で花と言えば桜のことをさす。

■どことなく淋しさも感じさせる桜

ところで桜とひと言で言っても種類は色々ある。がしかし、現在日本全国各地で圧倒的に多いのは、ソメイヨシノだ。

見頃はだいたい4月の初旬。卒業や入学、出会いや別れ、長い冬に終わりを告げ新たな命が芽吹く季節という、入れ代わりの激しい時期と重なっているからなのか、満開の桜の風景の中に身を投じていると、淋しささえも感じてしまう。

ポカポカ陽気で大勢の仲間と桜の下でどんちゃん騒ぎも楽しくていいが、桜には、あまり深く立ち入ってはいけないような、危険な香りがするのも否めない。生命が蠢くこの季節、満開の桜の花びらが舞い散る姿に、壮絶な死を感じてしまうのはなぜなんだろうか。

■桜に魅了された作家 坂口安吾と梶井基次郎

そういう感覚が、モノを創りだす者にとってなんと魅力的なワードか。古から恰好の題材として親しまれてきた。

坂口安吾の『桜の森の満開の下』では、桜は決して美しいものではなく、妖しく怖ろしいものとして捉えられ描かれている。満開の桜の下を通るとき、人々は正気ではいられなくなってしまう。誰にでも、少しは心の奥に闇を抱えているものだ。桜はそれを決して見逃さない。気がつかない間にその隙間にするりと入り込み、内側からじわじわと侵蝕していくのだ。と、いう気持ちにさせるので、人々は怖れを抱く。大勢で騒いでいるうちは問題ないが、独りで満開の桜の中に埋もれてみれば、きっと理解できるだろう。

梶井基次郎も『桜の木の下には』という魅力的な作品を遺している。冒頭から「桜の木の下には屍体が埋まっている!」という、強烈な一文から始まるこの物語でも、やはり桜の持つ、妖しい魅力と払拭できない死のイメージが付きまとうのである。これは全て桜だからこそ成り立つのである。

■桜葬と呼ばれるほど、お墓にも縁がある桜

お墓を選ぶとき、場所は重要な要素の一つである。祖母は生前、山の上の素晴らしいバケーションである墓地の一角に、自分の入る墓を購入していた。確かに、空気は澄んできれいだし、土や草木の匂いを間近に感じることができる。環境は抜群である。業者の営業からもらったパンフレットは、それはそれは魅惑的な内容が描かれていたのだろう。つい購入してしまった気持ちもわからないでもない。しかし、問題はお墓参りに行くための交通手段である。

今は車で行くのでさほど問題はないが、そろそろ両親も運転をするのは心許ない年齢に差し掛かっている。歩いて登るのはなかなかきついし、駅から毎回タクシーで行くのも勿体無いし。門を入ってからお墓までの道も、結構な傾斜になっているので、もっと年齢がかさむと、いつかお参り出来なくなってしまう日がくるかも知れない。

■最後に…

自分が眠る場所として選んだのには、最高なのかも知れないが、残された家族にとっては、はた迷惑この上ない。

だが、はなびらがちらちらと舞い、何もかもを埋め尽くす満開の桜。人の清廉さも醜悪さも全て包み、隠していく。優しいはなびらに覆いつくされながら、死んでゆきたいと願うのは、きっと西行法師だけではない。理想と現実はギャップがつきものだ。

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