[今さら聞けない幕末] で、結局「尊王攘夷」って何?3つの時期に分けて解説

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[今さら聞けない幕末] で、結局「尊王攘夷」って何?3つの時期に分けて解説

先日解説した、今さら聞けない幕末「どうして徳川慶喜は大政奉還をしたの?」はいかがでしたか?

[今さら聞けない幕末]どうして徳川慶喜は大政奉還をしたの?きっかけはあの幕末ヒーロー

今回の今さら聞けない幕末は、幕末の小説やドラマを楽しむために押さえておきたい基本ワード、「尊王攘夷」。今回は3つの時期に分け、あえて取り上げる出来事を絞って「尊王攘夷」思想を超簡単に解説します。

① 1853年〜1860年 ペリーがきて猫も杓子も「尊王攘夷」!

天皇を尊ぶ「尊王」論+外国を打ち払う「攘夷」論=「尊王攘夷」思想がいつ生まれたのかというと、きっかけはアノ人、ペリーさんです。

黒船来航時、巷で配られたペリーの似顔絵がブサイクすぎて、庶民は「やべえのが来た」と大騒ぎ。自然、「攘夷」論が生まれます。それがなぜ「尊王」とくっつくかというと、大の孝明天皇がめちゃくちゃ外国人を怖がり、嫌っていたからです。

日本で一番えらい天皇が「攘夷派」なんですから、初めは猫も杓子も皆「尊王攘夷」派でした。しかし、実際にペリーに詰め寄られてる幕府は、皆と一緒に離れた所で「攘夷だ攘夷だ」なんて言っていられません。ペリーがめちゃくちゃ怖いのです。もう明らかに日本の何百倍も強いのです。

板挟みになってどうしようもなくなった幕府大老・井伊直弼が、怖がる天皇すらムシして日米修好通商条約締結。これには日本中からブーイングが起き、井伊大老は桜田門外の変で暗殺されました。

②1862~1864年 尊王攘夷vs公武合体

さて、日本中からブーイングを食らった幕府はどうにか幕府の権威を取り戻し、日本を一枚岩にしたい。そのために出てきた秘策が「公武合体政策」=朝廷と幕府の仲良しアピールでした。幕府は天皇に、日本が弱すぎて今すぐ攘夷が出来ないことを説明し、「朝廷と幕府が協力して強い日本を作り、その後攘夷しましょう!」と約束。

こうして孝明天皇の妹・和宮が、将軍徳川家茂と結婚し、尊王攘夷派を黙らせようとしたのです。同時期に薩摩もイギリスとの戦争に負け、今は攘夷が出来ないことを悟り、公武合体派へ。以降「尊王攘夷派」vs「公武合体派」の構図が出来上がります。


皆がなんとなく公武合体になびいている頃、長州だけは「ハイパー尊王攘夷野郎」。誰も攘夷しようとしないのにキレて、京都に次々刺客を送り込み、開国やら和宮降嫁に関係した人たちを「天誅」と称して次々暗殺。

ちなみに「天誅!」というのは、「天(天皇)に代わってお仕置きよ!」というような意味。頼みもしないのに担がれ、さすがの孝明天皇もドン引きして長州を見捨てます。「尊王攘夷派」はついに孤立するのです。

③1864年後半~ 尊王攘夷は時代遅れ

長州にも、目覚めの時がやってきます。攘夷と称して外国船をテロ攻撃した報復で、外国の四カ国艦隊にボコボコにされ、悟るのです。「攘夷って、無理じゃね?」尊王攘夷論は机上の空論だと気がついたのです。攘夷の前に自分たちの軍事力増強の必要性を感じた長州は、同じく外国と戦争して負けた事のある薩摩藩と薩長同盟を結びます。

両藩は、「尊王攘夷」の「攘夷」が無理だとわかったのでポイッと捨て、代わりに持ってきた言葉は「倒幕」。将軍慶喜と口論になった薩摩の島津久光がついに幕府を見限り、薩長を中心に「尊王倒幕」思想が誕生したのです。ここから「尊王攘夷」に代わって「尊王倒幕」のスローガンが、日本全国にじわじわ広がってゆきます・・・。

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