"東アジア初の女帝"として知られる推古天皇は本当に「中継ぎ」にすぎなかったのか? (2/2ページ)
彼が有能な政治家であったことに疑いの余地はありませんが、この時代には、天皇の権限を代行する「摂政」は未成立で、皇位継承のための「皇太子」という地位も確立していませんでした。
また、蘇我馬子の権力は天皇の外戚であったからこそ確立されていたものであり、当時の天皇の地位や権力を考えると、天皇を差し置いて政治の実権を握れるようなものではありませんでした。
『上宮聖徳法王帝説』には、聖徳太子と蘇我馬子は、「共に天下の政(まつりごと)を輔(たす)く」と記載され、「リーダーシップを発揮する推古天皇の元で、聖徳大使と蘇我馬子が補佐を行っていた」というのが、最近の定説となっています。
有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す 恙なきや」
という文書は、推古天皇の時代に遣隋使・小野妹子が隋へ持参した国書です。「日の出る所の皇帝(天皇)が、日の沈む所の皇帝に手紙を書く。元気か!?」との、大国である隋と日本は対等であるという立場を主張したこの手紙も、推古天皇の指示でしたためられたもの。
更に再び遣隋使として派遣された小野妹子に託された日本からの国書には「東(やまと)の天皇敬(つつし)みて 西(もろこし)の皇帝に白(もう)す」と書かれていました。
これは日本史に初めて「天皇」という言葉が登場した文書と言われています。当時絶大な力を持っていた大国・隋に対してこのように「日本はあなたの属国ではありません。あなたと平等で、上下関係はありません」とはっきりと明言する国書が、「お飾り」にすぎない天皇の指示で送られたものとは、とても思えませんよね?
聖徳太子と縁が深い法隆寺 画像:Wikipedia
推古天皇の即位した時期の日本をめぐる国際情勢は、現代に負けず劣らず、油断のならない状況でした。そんな時代だからこそ、お飾りや中継ぎではなく、真のリーダーにふさわしい天皇が求められていて、それに最もふさわしいとして選ばれたのが推古天皇だったと考えるのが妥当でしょう。
歴史上の女性天皇達の実績は、これだけにとどまりません。ニュースで「女性天皇」「女性宮家」という言葉を見聞きしたら、歴史上の女帝の活躍に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?
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