"東アジア初の女帝"として知られる推古天皇は本当に「中継ぎ」にすぎなかったのか? (1/2ページ)

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"東アジア初の女帝"として知られる推古天皇は本当に「中継ぎ」にすぎなかったのか?

女性の天皇は「形ばかり」だったの?

今上天皇の「生前退位」、「女性天皇」「女性宮家」などの単語がメディアに登場する今日この頃。過去、日本には女性天皇がいたことをご存じの方も多いでしょう。

これまで日本には、10代8人の女性天皇が存在しました。しかし、これまでの定説では、彼女達はあくまで男性の皇位継承者が不在の場合の『中継ぎ』に過ぎず、天皇としての実権は持たなかった、とされていました。

例えば、東アジア初の女帝として知られる推古天皇は「形ばかりの天皇」で、政治は摂政の聖徳太子と、おじにあたる蘇我馬子が握っていたと言われてきました。

土佐光芳画「推古天皇像」画像:Wikipedia

これ、本当にそうだったのでしょうか?

2人の有能な政治家が天皇を補佐

聖徳太子は、歴史の教科書にも登場し、目にしたことがない人はいないくらい、日本史上で最も有名な人物の1人です。聖徳太子は、女帝である推古天皇に代わり、摂政として政治を行った人物とされ、憲法17条の制定、四天王寺の建立、遣隋使の派遣などの功績を残しています。

『唐本御影』画像:Wikipedia

「聖徳太子は実は存在しなかった」という説が流れた時期もありましたが、その存在を否定する根拠がないことは『播磨国風土記』などの記載からも明らかです。

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