東洋のシンドラー・杉原千畝の足跡が残る場所、リトアニアの「杉原記念館」 (2/4ページ)
杉原千畝は一晩中悩みぬき、ついに本国の命令に背いてまでビザを発給する決意をしたのです。
「私を頼ってくる人々を無視するわけにはいかない。でなければ私は神に背く・・・」
それからカウナスの日本領事館が閉鎖されるまでのおよそ1ヵ月のあいだ、彼は昼夜を問わず、万年筆が折れ、腕が動かなくなるまでビザを書き続けました。

ビザの発給は、リトアニアを去る列車の中まで続き、彼がこのとき最後に発給したビザは、走り出そうとする列車の窓から手渡されたのです。
「許して下さい、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています。」と杉原千畝が頭を下げると、「ミスター・スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ。」という叫び声が上がりました。
こうして杉原千畝がカウナスで発給したビザの総数は2000通以上ともいわれ、それによって6000人を超えるユダヤ人が命を救われました。

日本国の命令に背けば、自身はおろか、家族の身もどうなるかわからない状況でしたが、彼は外交官としての立場を超えて、一人の人間として正しいと信じた道を選んだのです。
残念ながら、こうした杉原千畝の功績は、彼の晩年まで公にされ、日の目を見ることはありませんでした。
第2次世界大戦が終結し、1947年に日本に帰国した杉原千畝を待っていたのは、外務省からの退職勧告。
表向きの理由は新しいポストがないことでしたが、事実上のクビだったといえます。
それから職を転々とした後、1968年になって突然イスラエル大使館から一本の電話を受けます。