徳川将軍たちはどんな人だった? 後編:8代・吉宗から15代・慶喜まで
先日紹介した、「徳川将軍たちはどんな人だった? 前編」
徳川将軍たちはどんな人だった? 前編:初代将軍・家康から7代・家継まで今回は8代・吉宗から15代・慶喜までをご紹介します。
7代将軍・家継の死去により、徳川宗家の血筋は絶えてしまいます。徳川将軍をたどるシリーズの後半は8代将軍吉宗からご紹介していきます。
8代・吉宗徳川吉宗像(徳川記念財団蔵)
8代将軍は紀州徳川家の吉宗(よしむね)でした。モットーは、質実剛健。色黒で180㎝以上あり、腕力もかなりのものだったそう。女性にも人気があり、将軍になったら大奥の美女50人を「嫁にいけ」とクビにしたというエピソードもあります。32歳で就任し在職期間は29年、享年は68歳でした。
9代・家重徳川家重像(伝狩野英信画、徳川記念財団蔵)
吉宗の長男の家重(いえしげ)は、35歳のときに就任。幼少期より病弱で、言語不明瞭なところがあったとか。吉宗の没後もお酒ばかりのみ、政治にはあまり興味がなかったというから困ったものです。さらに頻尿でもあったので、江戸っ子から「小便小方」と呼ばれるほど。享年は51歳でした。
10代・家治徳川家治像(狩野典信画、徳川記念財団蔵)
家重の長男の家治(いえはる)は、24歳のときに就任。とても聡明で、学問・武芸ともに一流でした。父の遺言に従い田沼意次を重用したことで田沼が活躍し、家治は次第に政治から遠ざけられてしまいます。在職期間は26年、享年は50歳でした。
11代・家斉徳川家斉像(徳川記念財団蔵)
一橋家から養子に入った家斉(いえなり)が継いだのが、15歳のとき。松平定信が老中となり寛政の改革に取り組みますが、あまりに規制が厳しく反発があったため罷免します。水野忠成(ただあきら)の台頭で幕政はゆるみました。40人の側室に55人の子供というから、別の意味でパワーが凄いようで。在職期間は50年、享年は69歳でした。
12代・家慶徳川家慶像
家斉の嫡男の家慶(いえよし)は、45歳で就任。老中・水野忠邦を信任して、天保の改革を進めるものの、上手くいかず罷免します。在職期間中にペリーが来航。61歳のとき、病没しています。
13代・家定徳川家定像(徳川記念財団蔵)
家定(いえさだ)は29歳で就任した、家慶の息子。病弱で癇癪もちな上に奇行も目立ったようです。よくいえば自由奔放ですが、周囲の人々は振り回され大変だったのでは。体が弱かったためか、35歳という若さで生涯を終えます。
14代・家茂徳川家茂像(慶応2年(1866年)、徳川記念財団蔵
家定は子供が望めなかったため、家斉の孫・慶福(よしとみ)が家茂(いえもち)と改名し、13歳のときに就任します。時代は倒幕にむかって流れ始めており、家茂は辞表を提出したほど。結局受け入れられなかったのですが、自ら辞職しようとしたのは、歴代将軍初でした。享年21歳。
15代・慶喜禁裏御守衛総督時代の慶喜
徳川幕府最後の将軍が、慶喜(よしのぶ)です。一橋家を継いでいましたが、家茂の病没により29歳のときに将軍に就任。大政奉還を行い、鳥羽・伏見の戦いに敗れたのち謹慎生活に入り、こうして徳川幕府は300年の歴史に幕を閉じます。最長寿の77歳で没した慶喜は、豚肉が大好きだったため、豚一というあだ名がつけられていたそう。
15人の歴代将軍を駆け足でご紹介しました。将軍様も様々な方がいらっしゃいますね。
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