高句麗から日本に渡来してきた高麗王若光の生涯と埼玉県日高市にあるお墓

心に残る家族葬

高句麗から日本に渡来してきた高麗王若光の生涯と埼玉県日高市にあるお墓

第2次世界大戦終戦直後の混乱期から、捕虜としてシベリアに長く抑留されていた日本兵たちの間で、1946(昭和21)年頃から歌い始められた歌に『異国の丘』がある。極寒のシベリアでの肉体労働という苛烈な異郷に生きた人々を励ました言葉に胸が熱くなる。
︎「今日も暮れゆく 異国の丘に 友よ辛かろ 切なかろ 我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ 帰る日も来る 春が来る。 今日も暮れゆく 異国の丘に 夢も寒かろ 冷たかろ 泣いて笑って 歌って耐えりゃ 望む日が来る 朝が来る。 今日も昨日も 異国の丘に おもい雪空 陽が薄い 倒れちゃならない 祖国の土に 辿り着くまで その日まで。」

■異郷で生きた人物の一人 思想家のツヴェタン・トドロフ(1939〜2017)

異郷で生きた人物には、例えば社会主義時代のブルガリアの首都・ソフィアに生まれ、名門・ソフィア大学卒業後に渡仏し、フランス国籍を得、終生フランスで暮らした思想家のツヴェタン・トドロフ(1939〜2017)がいる。彼は「フランスに実際やって来て、私は高い期待を裏切らない現実に出会っただろうか。もちろん失望は数多くあった。私の仕事仲間であった作家たち、学者たちには無知と自惚れの混交が見出され、そのことは私を驚かせた。フランスでしか通用しない田舎臭い精神がしばしば伴っていて、そうしたお国自慢を正当化するものは何もなかった。だが私自身も徐々にフランス人になっていった…(略)…私はもはやフランスがどのような国であるか言うことができない」と、「異郷に生きていない人」が持つ、無邪気で悪意なき「田舎臭い精神」や「お国自慢」が自分自身のうちに自然に沸き起こることがないにもかかわらず、「徐々にフランス人になっていった」。そして自分が「フランス人」になってしまったことで、もはや「フランス」を客観視できなくなったことをトドロフは淡々と書き記している。彼は自分が生まれたブルガリアを含めた、当時の社会主義政権に対し、「『私』よりも『私たち』を価値あるものとし、この好みを個人に数多くの制度、組織のうちに枠づけることによって現実のものとする。諸制度、組織は実際には個人の監視、管理に用いられ、急速に憎むべきものとなる…(略)…個人の権利を守るものは何もない。警察は腐敗していたし、不公平だったし、おぞましいものだった」と述べていることから、たとえ民主化されたにしても、ブルガリアには未練は一切なかったかもしれない。しかし、「異郷に生きた」者の全てがそうとは限らない。

■高句麗からやってきた日本にやってきた高麗王若光

716(霊亀2)年に駿河・甲斐・相模・上総(かみつかさ)・下総(しもつふさ)・常陸・下野(しものつけ)の7国に居住していた高麗(こま)人1799人を移し、武蔵国高麗郡(現・埼玉県日高市や飯能市を中心に東西30km、南北10kmに渡る村々)が建郡された。その高麗人たち、そして彼らを統率し、高麗郡全体を治めたとされる、高麗王若光(こまのこしきじゃっこう)(?〜748)は異郷・高麗で何を考えて一生を終えたのだろうか。

高麗王若光「らしき」人物についての公式記録は、『日本書紀』(720年)内の、天智天皇5(666)年10月に、高句麗(こうくり、BC37〜668)国王が飛鳥に送った使者のひとりに「玄武若光」がいたこと。そして『続日本紀』(797年)の、大宝3(703)年4月に、朝廷から従五位下(じゅごいげ)の高麗若光に王(こしき)の姓(かばね)が与えられたということだけである。ここで言う「姓」は苗字のことではなく、臣(おみ)・連(むらじ)・朝臣(あそん)・眞人(まひと)などの称号のことで、「王」は外国の王族の血を引いた高位の者に与えられるものであったため、若光は高句麗王族の血縁者または高位の者であったことが窺い知れる。しかし「玄武若光」と「高麗若光」が同一人物であるかに否かに絡んだ記述は存在しない。また、694(持統8)〜710(和銅3)年まで日本の首都であった藤原宮(奈良県橿原市)跡東面大垣地区から出土した「□□(判読不能)若光」の文字がある木管が、高麗王若光と関連があると見られている。

■高麗王若光の末裔が残してきた資料によると…

更に若光の末裔が代々若光を祀り、現在は60代目の文康氏が宮司を勤める高麗(こま)神社(日高市新堀833)に保存されていた1784(天明7)年3月に記された『高麗大明神由緒書 上』によると、若光一族は当時未開発であった高麗郡一帯の開発耕作に精励した。若光の死後、親族や地域の人々は若光を偲び、「高麗大明神」として崇敬した。祭神は後に「大宮大明神」とも、若光が高齢で白ひげを生やしていたことから、「白髭大明神」とも言われた。毎年9月19日には近在の12村で獅子舞などの祭礼を行って来た。また、1878(明治11)年に記された『武蔵國高麗郡高麗郷古傳』には、土地の人々の伝承に、若光は朝鮮半島内の国乱を避け、親族重臣と共に来日し、日本に帰化した。若光が住居と定めた高麗郡高麗郷周辺には、若光と行動を共にした人々も群居した。後にそこから離れ、他の土地の開墾に従事する者もいた。若光は村人たちをいたわったので、次第に彼らの生活を安定させるに至った。若光の死後、高麗人はあちこちに分散し、村を開いた。その際、若光を祀った「白髭神社」を自ら移り住んだ場所に遷座し、その徳を称え続けた。そのような中小の白髭神社は近在に21社存在するという。

そして高麗神社の宝物のうち、高句麗からもたらされたものとして、高麗王太刀(1口)、駒角(高麗王が乗馬した際、馬に生じた角と言い伝えられたもの。駒角は当時、国家における吉凶の大事の前兆と信じられていた)(1口)、鏡型掛仏(1面)、掛仏(13体)、独鈷(1本)、唐獅子(香炉烟吐)(1個)がある。

■高麗王若光の言い伝え


若光を祀り、その末裔によって守られてきた高麗神社は59代宮司・澄雄が記した『高麗神社と高麗郷』(1931/1991)内に記載された、1886(明治19)年7月に内閣修史局に提出された「高麗氏系図」の冒頭文を挙げ、高麗神社に祀られた神々は高麗王若光、猿田彦命、武内宿禰の三柱だが、もともとは若光が亡くなった際、近在の人々が集まり、遺骸を居宅の外に葬り、霊廟を現在の高麗神社社殿の後の山に建て、高麗明神と崇めた。そして郡中に凶事があると明神に祈ったと述べている。

そして若光一行にまつわる言い伝えとして、来日後に東海(現・太平洋側の三重県・岐阜県・静岡県・愛知県)を目指し、遠江(とおとみ)灘から伊豆の海を過ぎ、相模湾から大磯(おおいそ。現・神奈川県中郡大磯町)に上陸した。そして邸宅を化粧(けわい)坂から花水(はなみず)橋に至る大磯村高麗(こま)の地に営んだ。そこで若光は朝廷より従五位下に叙せられ、次いで王の姓を賜った。それから14年後、彼ら一族は武蔵の高麗郡に赴いた。しかしその後も大磯の人々は若光の徳を称え、高麗山(こまやま)の中峯に高来(たかく)神社上の宮を、そして麓には下の宮を建ててその霊を祀ったということを紹介している。

■そもそも高麗王若光は何故日本に来たのか

若光などの渡来人が奈良の都周辺や当時唯一の海外要人を饗応する「迎賓館」であった筑紫館(ちくしのむろつみ。現・福岡県博多湾沿岸)を擁する今日の福岡県内ではなく、北武蔵(現・埼玉県熊谷市)に移住したのは、6世紀末頃の壬生吉志(みぶきし)が始まりとされている。そもそも何故、彼らが異国の、しかも彼らの目には「後進国」だった日本に移住しなければならなかったのか。

若光の出身国・高句麗は首都を平壌とし、朝鮮半島中北部から中国東北部に至る大国だった。紀元前75年頃の古代朝鮮において、鴨緑江中流域、渾江流域に位置する高句麗県内を拠点とし、大きな政治力を有した人々が発祥とされている。彼らは山城(やまじろ)を築いて根拠地とするばかりではなく、平地にも平城(ひらじろ)をつくり、山城と平城を軍事的・政治的に一体化するという独特なやり方で運営したことで、半島内の一大勢力となっていた。それゆえ、新羅(BC57〜935)や百済(346〜660)のみならず、中国・隋の煬帝(ようだい。在位604〜618)や唐の太宗(たいそう。在位626〜649)、高宗(こうそう。在位649〜683)を手こずらせるほどの国力を誇っていた。しかし高句麗は666年、国内の後継者争いに伴う内乱が起こる。それに乗じた唐の高宗と新羅の連合軍によって攻め込まれ、最終的に668年に滅亡した。7〜8世紀は高句麗のみならず、百済も滅亡し、半島を制圧した新羅にしても国情は必ずしも安定したものではなかったことから、多くの亡命貴族や技術者たちが日本に亡命した。しかも「後進国」であった日本を治める大和朝廷は、彼らを都に留め置き、最先端の技術や学問を学ぶ必要があったばかりではなく、未開の地である東国の開発を必要としていた。それは東国内の上野国(こうずけのくに、現・群馬県)には、反朝廷派の上毛野氏(かみつけのうじ)が力を振るい、いつ奈良の都に攻め上って来るかわからない状況でもあったからである。それゆえ朝廷側は亡命貴族が有する農耕・牧畜・紡績・鍛治などの最先端技術を導入することで東国を安定させ、上毛野氏に追随する地方豪族が出ないことを目指してもいたのだ。

■高麗王若光が高麗郡(埼玉県日高市や飯能市周辺)を選んだ理由とは?

また、高麗王若光らが武蔵の高麗郡の「ここ」に居を定めたのは、「たまたま」ではないだろう。高麗川南側の山地から市域南縁に横たわる高麗丘陵と高麗川がある。そして高麗川中域は北に外秩父山地外縁の急斜面が、南に高麗丘陵の斜面がすぐ河川近くまで迫り、これらから流れ出る多くの沢による小開析で大地平坦面が狭い。そして高麗川と大地の比高差が4〜5mと大きく、しかも河岸が切り立った、ある意味独特な「場所」だ。建築学・都市計画学者のジョナサン・バーネットの、「成功した都市は、ほとんどが川か港沿いで成長している。というのはそれらの都市では、水上を経由して大量の物財を最も効率的に移動させることができたためである」という言葉ではないが、政治の本拠地を一箇所に定めず、自然の地理を有効活用しつつ、山城や平城を建てることで国防に最大限の配慮を払い、それゆえに新羅や百済のみならず、大国の隋や唐から容易に滅ぼされることがなかった高句麗ならではの地理学・地政学の知識が活かされていたのかもしれない。

また、日本文学研究者の岩田大輔は、高麗郡には8世紀前半以降の集落跡に加え、当時の武蔵国にあっては、1郡1寺が一般的だったにもかかわらず、女影廃寺、高麗氏の氏寺とされる大寺廃寺、高麗神社そばの聖天院の前身と考えられている高岡廃寺の合計3寺も存在したということは、「若光」が実在した人物か否かはともかく、大きな指導力を持った人物、あるいはそれに基づいた集団がいなければ、これだけの大事業がなされなかったこと。そして高麗郡が置かれる8年前に近在の秩父で銅が発見されている。銅を採掘し、それを精錬することは国家事業レベルのことである。そのため高麗郡が「ここ」に置かれたのは、秩父の銅と若光ら高麗人が有する先進技術と関連があり、若光自身も単なる地域の長(おさ)以上の力を有していたのではないかと推察している。

■高麗王若光が高麗神社に祀られている理由


また、若光が「高麗大明神」という仏神として高麗神社に祀られていることについて、記録には具体的に何も残っていないものの、若光の死後、残された一族郎党は当初は高句麗、或いは朝鮮で信じられていた神祇を祀り、彼らの「やり方」に則った祭祀を行なっていた。しかしその後、時を経て、日本式の祀られ方をしたのではないか。或いは、高麗郡建郡前に、現在神社がある周囲の山に神が宿っているとして、地域の信仰を集めていた。そこに高麗人が1799人移住し、大きな郡をつくった。それに伴い、旧来の聖地で高麗人たちが新たに、自身の文化や歴史に即した何らかの宗教儀式を行なった。若光の死後もそれは継承された。しかし更に時を経て、今度は「神社」「寺」「大明神」など、日本式の祭祀の変わった…など、時代時代に即した信仰形態による「上書き」がなされた可能性があると考えられている。

若光の墓は高麗神社のそばの高麗山聖天院勝楽寺(こまさんしょうでんいんしょうらくじ)に存在する。それは山門(風神雷神門)右手の霊廟内の、登山道などでよく見かけるケルン(積み石)のように墓石の上に5石の石を積み上げた多宝塔だ。日本では見られない、高句麗ならではの墓標と言えよう。もともと聖天院は高句麗伝来の仏教霊場で、若光の三男・聖雲が、751(天平勝宝3)年に亡くなった師僧の高麗僧・勝楽の冥福を祈るため、勝楽が故国から携えてきた歓喜天(かんぎてん、聖天)を安置して開基した寺という。かつては墓標の下部に4体の仏が彫られていたというが、石の質が柔らかいものであったために、今ではそれらは判別できない。

その後高麗の地は、養蚕と麦作がさかんになった。そのため高麗川流域には水車が何基も回り、小麦をつく杵の音が絶えない、ある意味日本のどこにでもあるのどかな「里」「農村」になった。それを裏づけるように、高麗神社内にある重要文化財で、江戸期に作られた藁葺きの高麗家住宅は、我々がよく知る「田舎の庄屋さんの家」そのもので、「高句麗」「朝鮮」の痕跡は全くない。

■日韓交流の象徴として脚光をあびるようになった高麗神社


しかし皮肉なことに、高麗神社そのものが日本国内で脚光を浴びたのは、1868(明治元)年に神仏分離が行われた明治時代以降、主に1910(明治43)年の日韓併合から1945(昭和20)年の終戦までの間だった。高麗神社は意図せぬところで結果的に「政治」に関わる格好で「植民地支配」された朝鮮と、「支配」した日本との「内鮮融和」「内鮮一体」(朝鮮人が日本の言語や風習に同化することを目指すもの)のシンボルとされた。そのため日本の皇族や若槻礼次郎、浜口雄幸、斎藤実などの大物政治家や折口信夫などの民俗学者や文学者、朝鮮総督府の要人たち、朝鮮からの日本視察団の人々、更には「東洋のマタ・ハリ」こと清朝王族、第10代粛親王の第14王女の川島芳子や李王朝の最後の皇太子・李垠、李方子殿下らが訪れるほどだった。

現在は一の鳥居の右側に、1993(平成5)年に、在日大韓民団の人々に奉納された「将軍標(しょうぐんひょう)」と呼ばれる、左に「天下大将軍」、右に「地下女将軍」という文字が彫られた一対のトーテムポールが立っていたり、例えばサムルノリ(4つの打楽器を打ち鳴らしながら、激しく体を動かすもの)などの韓国の民俗芸能が披露されたりするイベントが開催されたりする、「日韓交流」の「場所」となっている。

■最後に…

昨年2016(平成28)年は、高麗郡建郡からちょうど1300年経った年だった。その1300年間、異郷で生きた、そして死に、かつての高句麗から遠く隔たった多宝塔の下に眠る高麗王若光または、高麗神社に祀られた高麗大明神は高麗郡の1300年をどのように眺め、何を思ったのだろうか。輝かしき高句麗再興を、異国の「高麗」と名づけられた「場所」で夢見たのか。『異国の丘』の♪我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ 帰る日も来る 春が来る♪の歌詞のように、朝鮮半島に戻りたいと強く思い続けていたのか。またはトドロフのように、「日本人」になってしまったことで、「日本」のことを「どのような国であるか言うことができな」くなるほど日本に溶け込んでしまった自身への一抹の孤独感を抱きつつ、日々を送ったのか。或いはアイルランド〜フランス〜イギリス〜アメリカと異郷で生きた後、日本で暮らし、家庭を築き、日本人よりも「日本」らしい、『耳なし芳一』『雪女』などを書き記し、そのまま日本に骨を埋めた小泉八雲ことラフカディオ・ハーン(1850〜1904)のように、日本の文化、人、歴史を愛したのだろうか。

■参考文献

■『高麗神社と高麗郷』1931/1991年 高麗神社
■『埼玉叢書 第6巻』1970年 国書刊行会
■大村進・秋葉一男(編)『郷土史事典埼玉県』1979年 昌平社
■『埼玉の神社 入間 北埼玉 秩父』1986年 埼玉県神社庁
■『続日本紀 1』1989年 岩波書店
■『続日本紀 22』1990年 岩波書店
■『日本書紀 5』1995年 岩波書店
■『日高市史 原始・古代資料編』1997年 日高市
■『世界の歴史 6 隋唐帝国と古代朝鮮』1997年 中央公論社
■『埼玉県の歴史』2010年 山川出版社
■『都市デザイン 野望と誤算』2000年 鹿島出版会
■『日高市史 通史編』2000年 日高市
■『古代朝鮮文化を考える』2001年 (137−139頁)古代朝鮮文化を考える会
■『文学研究論集』第25号 2006年 (303−314頁)明治大学大学院文学研究科
■『異郷に生きる者』2008 法政大学出版局

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