品川区の東海寺にあった原爆犠牲者慰霊碑が葛飾区の青戸平和公園に移された理由

心に残る家族葬

品川区の東海寺にあった原爆犠牲者慰霊碑が葛飾区の青戸平和公園に移された理由

現代の日本では、かつてのように長く継承されてきた檀家制度を基盤とした地域共同体を含み込んだ葬儀よりも、宗教や形式にとらわれない「家族葬」が好まれたり、墓所にしても、先祖代々の墓に入るよりも、ひとり、または夫婦で緑豊かな山里の樹の下などに埋葬されることを望む「自然葬」「樹木葬」が好まれるようになってきた。そうした時代の流れに影響された形で、古刹名刹とされる寺院も新しい試みをなしている。

■檀家制度の崩壊で徐々に変化し始めている寺院

例えば天正年間(1573〜92年)に創建された、埼玉県熊谷市の曹洞宗の寺院・万吉山(まんきちざん)見性院(けんしょういん)では、橋本英樹(えいじゅ)住職の英断によって、2012(平成24)年に檀家制度を廃止した。およそ400軒の古くからの檀家を一旦白紙に戻し、「随縁会(ずいえんかい)」という会員組織とした。そしてそれに属する人々を「檀家」から「信徒」へと名称を変えた。更に宗教・宗派・国籍不問で、誰にでも開かれた「みんなのお寺」にしたのである。その際、橋本住職は、日本国内で長く仏式の葬儀・法要が続いてきたことによる、「お気持ち」という、不明瞭かつ高額なお布施が取られてきた状況を改め、「信徒」が求める戒名や葬儀の形式に応じて、明確な金額を掲げた。

また、慈覚(じかく)大師円仁(えんにん)によって850(嘉祥3)年に開かれたという、岩手県西磐井郡平泉町の毛越寺(もうつうじ)では今年11月に、岩手県一関市・平泉町、宮城県栗原市・登米市の連携による合同婚活事業「GO縁in平泉」において、寺内をグループで散策しながらクイズを楽しむなどのイベントが開催される。

こうした寺院の「新しい試み」は日本全国レベルではまだまだ少数派で、まだまだ世間の動向への「後追い」の感が否めない。しかし寺院と深く関わり、そして長く支えてきた多くの人々の考え方の変化や多様化は、個人や家族共同体レベルのみではないようだ。例えば東京で「原爆慰霊碑」を守って来た人々にもまた、同様の動きがあったのである。

■葛飾区の青戸平和公園にある原爆犠牲者慰霊碑は元々品川区の東海寺にあった


葛飾区青戸4丁目にある青戸平和公園には現在、鳩を手にした女性像が原爆のキノコ雲をイメージした御影石製の台座に立つ「非核平和祈念塔」、1945(昭和20)年8月6日、広島にアメリカ軍によって原子爆弾が投下された際、爆心地から南南東におよそ2.2kmの場所に位置していた「被爆の証人」である御幸(みゆき)橋の縁石、そして8月9日の長崎の爆心地から約190m南にあった民家の門柱の一部に使われていた被災レンガ、千羽鶴の献花台、そして「原爆犠牲者慰霊碑」がある。
 
この慰霊碑はもともと、品川区内の臨済宗大徳寺派東海(とうかい)寺大山(おおやま)墓地(品川区北品川4-11-1)に祀られたものがはじまりである。それは1965(昭和40)年7月、「広島・長崎で無残に亡くなった方々を東京で追悼したい」ということで、東友(とうゆう)会によって、被爆20周年の節目に立てられた、慰霊の木碑だ。その後、遺族や会員の間で「永久的な石碑を建てたい」という声が高まったことを受けて募金を募り、2年後の8 月に東海寺境内(品川区北品川3-11-9)に慰霊碑が建てられたのだ。中央に立つ石碑の左には広島の爆心地の石と解説文、そして右に長崎の爆心地の石と「我等生命もて こゝに記す 原爆許すまじ」という誓いの言葉が刻まれた碑石を配している。それ以来、東友会は45年間、東海寺の歴代住職の理解によって、境内の慰霊碑前で追悼行事を行ってきた。

■原爆犠牲者慰霊碑は東京に移り住んだ被爆者を祀ったもの


この慰霊碑建立を意図した「東友会」とは、広島・長崎で被爆した後、東京に移り住んだ被爆者たちによって、1958(昭和33)年11月に結成された組織である。代表理事を務めた行宗一(ゆきむねはじめ、1913〜2008)は原爆投下当時、一兵隊として、広島城に近い中国103部隊(歩兵11連隊)2階の内務班で、ガリ版を切る準備をしていた。ふと、B29の爆音がした。そこで兵舎の窓から覗くと、外にいた兵隊が「パラシュートが落ちてくる」と騒いでいる。危険を察知した行宗はとっさに内務班中央部に駆け戻った。その時、白い閃光が炸裂したのである。

木造2階建ての兵舎はバラバラに潰れてしまった。材木の山から抜け出した行宗はとっさの思いで立ち上がった。何ひとつ、地上に立っているものはない。広島城の天守閣もどこかに吹き飛んでしまっていた。「暑いよ」「苦しいよ」「助けてくれ」と叫ぶ兵士の声がする。彼らは原爆爆発後、衣服に燃え移った火を消そうと地面を転げ回っていたが、程なくして、動かなくなってしまった。行宗ら、生き残った兵士たちは燃えさかる兵舎を後に、外に出た。無事ではあったものの、行宗はその後、髪が抜け落ち、皮膚には斑点ができた。終戦後の9月には白血球が750に減り、42度の高熱に苦しんだ。死を覚悟した行宗だったが、健康を取り戻すことができた。戦後は農林省(現・農林水産省)で働き、各地を転々とした。1950(昭和25)年に、生まれ故郷の東京に戻ることになった行宗は、原爆の後遺症で苦しむ、東京に移住した被爆者の身の上がずっと気がかりだったという。経済安定本部での仕事の傍ら、新聞や雑誌に被爆者の記事が出ると、すぐに訪ね、彼らの無事を確認し、仲間の輪を広げていったという。そうした中、行宗は広島の同じ部隊で被爆した、映画監督の田坂具隆(たさかともたか、1902〜1974)、元厚生次官で社会福祉家の太宰博邦(だざいひろくに、1910〜1994)らと共同で「東京原爆被害者の会」を結成。1956(昭和31)年に『被爆白書』を作成した。会はその後、「東京都原爆被害者団体協議会(呼称・東友会)」に発展した。

過激化・先鋭化を辿り始めていた学生運動などに代表される「政治の季節」であった1965(昭和40)年当時、「東友会」は、原爆関連の追悼行事には一切参加せず、東海寺で、犠牲者の冥福を祈った。行宗が言うには、「原水爆禁止運動」の諸活動には、「被爆者の心情を理解しようとする人間愛と平和の哲学」が欠けていると思われたからであるという。

■元々広大な敷地を所有していた東海寺だったが…

「原爆犠牲者慰霊碑」が建てられていた品川の東海寺だが、江戸幕府3代将軍家光(1604〜1651)が自ら「万松山(ばんしょうさん)東海寺」と命名し、自身が強く慕う禅僧・沢庵宗彭(たくあんそうほう、1573〜1645)のための寺として、1639(寛永16)年に建てさせたものである。

全盛期の東海寺は江戸時代きっての名刹とされ、4万7000余坪(約15万7000平方メートル)の広さを誇った。1716(享保元)年には寺内の塔頭(たっちゅう、寺内に建てられた小院)が17院にも及んだ。また、寺内に茶人の小堀遠州(こぼりえんしゅう、1579〜1647)設計の庭園もあったことから、歴代将軍が鷹狩のたびごとに訪れたり、町人たちが四季折々の風情を楽しむ品川名所のひとつとなった。

幕府が倒れ、明治時代になると、廃仏毀釈の機運から、寺院そのものの規模が縮小されていった。更に「品川」は京浜工業地帯発祥の地でもあったことから、敷地内に道路や鉄道が通り、果ては工場も建てられるに到り、かつての壮大さは失われ、今日に至っている。

■原爆犠牲者慰霊碑の移設は宗教的な理由と維持管理の難しさから進められた

このような「背景」を有する東海寺に祀られていた「原爆犠牲者慰霊碑」だったが、近年、寺院の境内に慰霊碑があるため、原爆死没者名簿への記名を宗教上の理由で断念する遺族が多くなり、無宗教での追悼式を願う声が増えてきた。さらに被爆者も高齢化して、慰霊碑の維持管理を被爆者ではない人、そして東京都内の自治体の協力を仰ぐ必要が生じてきた。そこで東京都福祉保健局の協力で、国の慰霊事業として国と東京都から助成を受け、被爆者と遺族、都民からの募金によって、都内の公立公園への移転事業が進められたのである。

その「場所」が葛飾区に定まったのは、自民党都議会議員の樺山卓司(かばやまたくじ、1947〜2011)や、東友会の活動に賛同し、会に属している葛飾区内の「地区の会」である葛友会(かつゆうかい)の人々からの強い依頼、そしてそれを受けて葛飾区長の青木克徳(かつのり、在任2009〜)や、葛飾区役所総務課の職員が地域の人々からの理解を求めるために、何度も説明会を開いたことなどによるものだという。

こうして2012年10月に「原爆犠牲者慰霊碑」は無事、青戸平和公園に移設された。除幕式には東友会関係者や遺族の人々のみならず、東京都・都議会・葛飾区・葛飾区議会・地元自治会の代表、自民党・公明党・民主党(当時)・共産党・都議会生活者ネットワークの都議、衆参議員が参列した。そして広島・長崎の原爆犠牲者を追悼し、核廃絶と恒久平和を祈ったのだった。

■最後に…

この「原爆慰霊碑」のように、必ずしも個人的なものではなく、多くの人が祀られ、公共性が高い「祈りのモニュメント」が、多様な人々の価値観や思想信条を反映した形で、宗教色を脱したものになること。少子高齢化問題で維持運営が困難となり、維持管理を「公」に委任するため、公立の公園・広場などに移されるようなことは、今後もますます増えてくる可能性がある。また寺院も、冒頭に紹介した見性院や毛越寺のように、新しく大胆な改革をなすところも増えていくだろう。多様な価値観を持つ人々の増加、そしてその「多様な価値観」を何らかの圧力やしがらみの存在によって諦めざるを得なくなるようなことが一昔前よりも減少してきた現代の日本において、「旧態依然」「非合理的」とみなされてしまうものが消滅してしまうのは時代の流れゆえに仕方のないことである。その一方で、「失われていくもの」に一抹の郷愁を感じてしまう人もいるだろう。いずれにせよ、忘れてはならないのは、行宗一の言葉、「被爆者の心情を理解しようとする人間愛と平和の哲学」ではないが、祀られた人たちに対する共感や尊敬、感謝の気持ちがなければ、単に祀る人たちのエゴイズムに過ぎなくなってしまう。従って、「形式」こそが「大事」、または「形式」から「もっと自由に」ばかりにとらわれるではなく、祀られる人に対して、自分のことのように受け止め、彼らが何を望むのか、広く深く思いを巡らせる必要があると言える。

■参考文献・サイト

■『週刊読売』1965年8月22日号(107頁) 「東京都の原爆被害者団体『東友会』の代表理事 行宗一 原水禁運動不参加の理由」 読売新聞社
■『しながわの史跡めぐり 増補改訂版』1997年 品川区教育委員会
■『品川歴史館特別展 品川を愛した将軍徳川家光 品川御殿と東海寺』2009年 品川区教育委員会
■『東京新聞』朝刊 下町版 「核廃絶 ここから再び 葛飾・青戸平和公園 原爆の慰霊碑移設」 2012年10月8日(18頁)
■『東京新聞』朝刊 下町版 「400人が反戦へ誓い 葛飾 非核平和祈念のつどい」 2014年8月2日(24頁)
■「青戸平和公園について —願いの象徴的空間に」『葛飾区公式サイト』2015年12月16日 
■「檀家制度廃止で収入4倍 仏教界騒然のお寺」『AERA dot.』2017年8月3日
■「GO縁in平泉 平成29年11月18日開催」2017年8月23日『来てみらいん!くらしたい栗原へ』栗原市企画部企画課 定住戦略室 定住戦略係
■「毛越寺で運命の相手見つけて 平泉、11月婚活イベント」『岩手日報Webサイト』2017年9月9日
■『一般社団法人 東友会
■『みんなのお寺 見性院
■『天台宗 別格本山 毛越寺

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