江戸時代は道路標識や表札がなく家を訪問するのは大変。迷子になると自力で両親との再会は難しかった?

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江戸時代は道路標識や表札がなく家を訪問するのは大変。迷子になると自力で両親との再会は難しかった?

町人たちの住んでいたところ

江戸の町人居住地は、嘉永6年(1853)には江戸全体の約15%のみ。この時、町人の人口は57万人5091人だったので、かなり狭くぎゅうぎゅうになって暮らしていたことが窺えます。

一つの町には道路に面して建物が並び、それぞれ長方形のブロックを作っていました。現代のように道路標識や町名表示はなく、表札もありませんでした。初めての場所を訪ねるときは、それはもう大変です。特定の地域を限って示した切絵図とにらめっこになるのが普通だったようです。

「繪本時丗粧 2巻」歌川一陽齋豐國

迷子対策も万全に

人も多くわかりづらいとくれば、迷子が出るのも避けられません。一度、迷子になると自力で両親と再会するのは難しいといわれていました。江戸の子どもは迷子札を常時身に付けていたとか。

あまりにも迷子の発生が多かったため、8代将軍・吉宗は芝口(新橋)に掛札場を作り、ここで迷子や身元不明者のお知らせをしていました。完全に迷子がなくなるということはないものの、効果はあったようですよ。

掛札場の掲示期間は7日間とあまり長くはなかったため、期限を設けない掲示ができる迷子さがしの策として、民間の人たちによって「迷子石」というのも建てられています。迷子石というのは、「たずねる方」「おしゆる方」のどちらかに貼り紙をして、報せを待つというもの。きっと、迷子石にはいつも人が集まっていたのでしょう。

町の出入りには門限があった

さて、長屋に無事帰ってきた子どもは、ひと安心ですね。町人が住むエリアの町屋敷には長屋がひしめき合っていました。表通りに面した出入り口には「木戸」があり、長屋の住民はそこから出入りする仕組みになっています。木戸口の上には、その長屋に住む人たちの看板があったそう。それを見れば、ここには医者・祈祷師・易者・鍼灸師が住んでいるといったことも一目瞭然です。その分野で困ったことがあると相談しやすいし、なにかと助かりそうですね。

「繪本時丗粧 2巻」歌川一陽齋豐國

この木戸は、明六ツ(日の出前の夜が明け出した頃)に開き夜の四ツ(午後10時頃)には閉められてしまうため、住民はそれまでに帰ってこなければいけませんでした。そんなわけで、夜の江戸はとても静かなものでした。ちなみに木戸の開閉は、一般的には大家の担当ですが、長屋の住人による当番制のところもあったようです。夜が静かな分、昼間はさぞかし賑やかで活気もすごかったのでしょうね。

参考文献:花咲一男(2000)『大江戸ものしり図鑑―ひと目で八百八町の暮らしがわかる』大江戸探検隊(2003)『大江戸暮らし』PHPエディターズグループ.

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