あやかりたいという理由で墓石を削って持っていくこととその遺族の思い

心に残る家族葬

あやかりたいという理由で墓石を削って持っていくこととその遺族の思い

自分の家の先祖代々の墓ではなく、自分とは直接的には縁もゆかりもない有名人、著名人の墓所を訪ね、その墓石を削って「お守り」または「思い出の品」とする人々がいることをご存知だろうか。「墓石」を傷つけることは、「何か呪いや祟りがあるのではないか」という、「霊魂」に対する恐怖感や神仏に対する「畏れ」の意識、または墓の下に眠っている人の尊厳を傷つける行為だ、などの倫理的な観点から、通常では許されない行為とみなされている。

■勝負運が上がるとされ墓石を削られ持っていかれた鼠小僧次郎吉


しかし例えば、実在した江戸末期の盗賊で、武家屋敷のみに押し入っていたことから、後の戯曲や歌舞伎などにおいて、庶民に盗んだ金銭を配った「義賊」として描かれた鼠小僧次郎吉(ねずみこぞうじろきち、1797〜1831)の墓石はそうではない。削った墓石を身につけて持ち歩くことで、博打のみならず、受験や商談などを含む「勝負事」全般に「勝つ」と信じられ、自分の運を、長年捕まらなかった次郎吉の強運に託す人々で後を絶たない状況だ。

この「鼠小僧の墓」こと、供養碑は、東京都墨田区両国の回向院(えこういん)の中にある。碑に刻まれた文字によると、「永代法養料金五拾圓」を納めた「細川仁三」によって、1926(大正15)年12月15日に建てられたものだ。

本来の次郎吉の墓だが、江戸時代は盗賊などの犯罪者の墓を建てることは禁じられていた。しかし江戸庶民のあいだで、歌舞伎の主人公となった次郎吉の人気が高まったことから、信仰対象としての墓、ないしは供養碑が求められたようである。また、次郎吉の墓石を削る「風習」は大体、明治10年代後半(1885年頃)には行われていたため、初めに建てられた墓石は人々に削られ、小さくなってしまっていたという。高さ1m、幅71cm、奥行き55cmほどの安山岩製の供養碑の手前には、参詣者が削るための「欠(か)き石」こと副碑が据えられている。多くの人々に削られ、磨耗した「欠き石」は数年ごとに新しいものが据えられているというが、次郎吉の功徳で成功した人々が感謝を込めて奉納することから、欠け石は現在まで数百基に及んでいると言われている。

■墓石が削られることは珍しいことではなかった。赤木圭一郎もその1人だった。

こうしたことは、決して珍しいことではない。第2次世界大戦中には、「軍神」とされた著名な軍人たちの墓石を削ってお守りにして、戦地に赴く人々もいた。そして、先に挙げた鼠小僧次郎吉同様に、江戸庶民の間で「アウトロー」なヒーローとして大人気を博した侠客・国定忠治(くにさだちゅうじ、1810〜1850)の墓石も、今なお削られ、「博打」「勝負事」に勝つと信じられている。

しかし、鼠小僧次郎吉、国定忠治、そして日本の軍人たちなどの残された家族は、墓を彼らの信奉者がお参りすること、更にはその墓石を「お守り」として削ることに対して、どう思っていたのだろうか。鼠小僧次郎吉らの遺族の気持ちを知る由はないが、石原裕次郎、小林旭に続く「第三の男」と言われた俳優・赤木圭一郎(本名・赤塚親弘(ちかひろ)、1939〜1961)の墓をめぐるエピソードを通して、考えてみたい。

■若くして亡くなった赤木圭一郎

「トニー」の愛称で知られる赤木圭一郎は、東京の歯科医の家に生まれた。1958(昭和33)年、19歳の時に日活第4期ニューフェイスに選ばれた。石原裕次郎の『紅の翼』(1958)のエキストラ出演を経て、小林旭主演の『群衆の中の太陽』(1959)でデビューした。
赤木はもともと、映画俳優に憧れていたわけではなかった。成城大学に入学した時、「学費ぐらい自分で稼ぎたい」と、アルバイトを探していたところ、たまたま母親の知り合いに日活のプロデューサーがいて、オーディションに応募したことがきっかけだったという。
小林旭(2001)によると、赤木は「普段から口数の少ないシャイな男」だったが、「動く時は、まるで身体の中にメロディーやリズムが巣食っているんじゃないかと思わせるほど、一挙手一投足が軽快で切れがあった」。「俺よりも身長は低く、運動神経のほうも良くなかったけど、拳銃を構え、股を開いて立つと人が変わり、そんなハンデを全く感じさせなかった。逆に、嫉妬を覚えるくらいスマートだった」。「アウトローで、都会的で、それでいて下品じゃない」、天性の雰囲気と魅力を有していた。それゆえ小林は自身の俳優人生の中で、「こいつは大変なライバルになる」と脅威を感じたのは、日活の二枚看板「裕次郎・旭」として、常に比較対照されていた石原裕次郎ではなく、赤木圭一郎だけだったという。
1961(昭和36)年2月21日に赤木がもし、調布の日活撮影所内で、『激流に生きる男』の撮影の合間に乗ってしまったゴーカートの操作を誤り、激突死しなかったなら、「俺なんかは脇に回っていただろう」。「日活の二枚看板は『裕次郎・赤木』になっていた」。更には「日活の低迷もなかった」、「日本映画の斜陽化を踏みとどまらせたかもしれない」と言い切っていた。このような赤木は石原裕次郎や小林旭のように、アクションが売り物で男のファンが圧倒的だったわけではなく、石原や小林が持たない甘いルックスゆえに、主に若い女の子の間で人気が大沸騰していたという。

■赤木圭一郎のファンが取った数々の行為

それゆえ赤木の突然の死は、ファンにとっては実に衝撃的であったのは言うまでもない。赤木の死の直後、赤木の遺品のセーターを欲しがった若い女性がいた。赤木の母は根負けし、その女性にセーターを送った。その後彼女は、後追い自殺し、赤木のセーターを抱きしめた格好で発見されたという。

さらに赤木が死んで、およそ3ヶ月後の誕生日にナルト、赤木の実家の門の前にたくさん花束が届いていた。そして「タンジョウビ、オメデトウ」の電報、100通余りの手紙、さらには直接家まで訪ねてきて、赤木の誕生日のお祝いとお焼香をしたいと懇願するファンまでいた。誕生日に限らなくても、突然大きなブリを担いで来て、赤木のためにその場で刺身をこしらえてくれた魚河岸の青年、「赤木さんにおまんじゅうの一つでもあげてください」と10円玉1枚と手紙を添えてきた人、「冥福祈願」のために、千羽鶴の束6本に加え、「千羽ではなく1万羽の鶴を折ったら送りますので、生前の赤木が愛した鵠沼(くげぬま)の海に流して下さい」と頼む人、「トニーの部屋でトニーのレコードを聞きたい!」とダダをこねる人、赤木の遺影の前で4時間も泣き続け、家に帰ろうとしない人もいたという。

■赤木圭一郎の遺族はどのように感じていたか


しかし、こうした熱烈なファンを迎え入れる側の遺族の気持ちはどうだったのだろう。赤木の姉・田代民枝によると、母親はファンの人たちを追い返すのは悪いと思い、親切に家に上げていた。その結果、過労で倒れてしまった。しかしファンはおかまいなしに、母親が臥せっているにもかかわらず、勝手に家の庭に入り込んできた。勝手に入り込んでくるのは家ばかりではなかった。赤木の墓にも及んだ。海を愛した赤木にちなんでか、「海水」と書いた水桶が、墓石が据えられる前に立てられていた白木の墓標のそばに置いてある。ファンは水の代わりに海水を注ぐので、墓標は赤茶けた色に変化してしまった。その木の墓標の前に据えられている御影石の台を、ファンが削り取ってしまう。後に完成した墓石も、削り取られて持って行かれる。玉砂利もだ。赤木の命日に家族が墓参りに行くと、ファンの人々が家族を珍しそうに見る。握手して下さい、サインして下さいとせがんでくる。「私たちは芸能人ではありません」と断り続けた。そのため、もともと赤木の先祖とゆかりがある薩摩藩士が多く眠る、杉並の曹洞宗・大円寺(だいえんじ)から墓を移す羽目になったという。赤木の墓は現在、静岡県の富士山裾野にある大石寺(たいせきじ)、そして神奈川県の鎌倉材木座(ざいもくざ)霊園内にある。田代は、「弟を偶像化してくださるのはありがたいことですが、そのために家族は被害者となりました。そっとしておいてください、とお願いするのみです」とインタビューを締めくくっていた。

■最後に…

熱狂的なファンとしては、赤木の実家に押しかけて、「トニー」の思い出にふけりたい。遺族の都合を考えることなく、プレゼントのみならず、大量の千羽鶴と「冥福祈願」に贈りたい。さらには、最初に述べた鼠小僧次郎吉や国定忠治、日本のかつての「軍神」たち同様、赤木の墓石を削り取って、「お守り」にして、常に持ち歩いていたい。しかし、遺族の側からすると、いつまでも赤木を忘れないでいてくれるのはありがたいこととはいえ、それが嵩じてしまったものは単なる迷惑行為でしかない。

とはいえ、こうしたことを避けるため、有名人の遺族が、墓の周囲に防護壁のようなものを設け、ファンの墓参を完全拒否してしまうのも物悲しい限りである。回向院内で削るための「欠き石」がある鼠小僧次郎吉の碑にせよ、現在の赤木圭一郎の墓にせよ、ファンはどうか、過剰な「好き!」や「何が何でもあの商談を成功させたい!そのためには何でもする!」などのエゴイズムを自制し、祀られた人、そして彼らの遺族のことを考えて欲しいものである。

■参考文献

■東京都墨田区(編)『墨田区史』1959年 東京都墨田区(刊)
■江戸町名俚俗研究会・礒部鎮雄(編)『江戸から東京への俗信迷信集』1969年 江戸町名俚俗研究会・礒部鎮雄(刊)
■「明星 “映画スタア・ベストテン”第9位(中間発表) 5月8日トニーの誕生日は祝電がいっぱい」『週刊明星』1961年5月28日号(90−93頁)集英社
■「ワイド特報 スターをめぐる明暗 15周年に遺族と後援会が対立…永遠の恋人 赤木圭一郎のお墓移転が大問題」『週刊明星』1975年2月16日号(182−183頁)集英社
■「緊急特報 2月21日の命日を目前に あの赤木圭一郎の墓が突然消えた!墓石はハンマーでくだかれ、空地に…なぜ?」『週刊平凡』1975年2月20日号(49−51頁)平凡社
■「『輝ける昭和人』血族の証言55:赤木圭一郎 弟の墓石まで削り取っていったファンの人達 田代民枝」『文藝春秋』1989年9月号 (159−160頁) 株式会社文藝春秋
■不二龍彦『迷信・俗信大百科』1996年 学習研究社
■小林旭『さすらい』2001年 新潮社
■岩井宏實『吉を招く「言い伝え」 縁起と俗信の謎学』2005年 青春出版社
■墨田区教育委員会(編)『改定 すみだの文化財 平成22年度版』2011年 墨田区教育委員会(刊)
■加門七海『墨東地霊散歩』2015年 青土社

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