江戸時代グルメ雑学(8) 秋といえば!のサツマイモ、元々は不作対策の作物だった? (2/3ページ)

Japaaan

大三島が飢餓から救われたのは、他でもなくサツマイモを栽培していたためであり、一躍サツマイモの名は広まります。その4年後の天文元年(1736年)、1人の学者が“暴れん坊将軍”で有名な8代将軍徳川吉宗より、薩摩芋御用掛と言う役職を拝命しました。

その学者こそが『甘藷(かんしょ。サツマイモの別名)先生』として親しまれる、青木昆陽です。昆陽は『蕃薯考(ばんしょこう)』と言うサツマイモに関する著書を記し、江戸の小石川植物園、九十九里浜の不動堂村などで芋の試験栽培に成功しており、飢饉対策に悩む吉宗に抜擢されたのでした。こうして、関東にもサツマイモ栽培が本格的に根付く基礎が出来たのです。

こうして将軍から武家、そして町の学者に至るまでが飢饉を乗り切るために導入したサツマイモは、徐々に江戸庶民に愛好されるようになり、空前のサツマイモ食文化を築いていったのです。次は、その江戸っ子達によるサツマイモブームについて紹介していきます。

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