天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 福田赳夫・三枝夫人(上) (2/2ページ)
福田はこれを『女にモテる福田だ』と言っていたが、福田が群馬3区で圧倒的に強かったのは、夫人の存在が半分はあったと見ていいんです」
風采からして福田は50キロそこそこと痩せており、一方の三枝は遥かに上回る60キロの堂々たる体格のよさ。加えて選挙では夫人の奮闘に一目も二目も置かざるを得なかった福田には、一時「恐妻家ではないか」の声がしきりだった。
かつて、毒舌の評論家として一世を風靡した大宅壮一が提唱して、『日本恐妻協会』なるものがつくられた。その初代会長には、これも毒舌家として鳴らした元NHK会長だった阿部真之助が就任した。その阿部が亡くなったのを機に、大宅は二代目会長を福田に頼み込んだのだが、福田はこう言って遠慮したのだった。
「わが輩は“恐妻”ではなく“敬妻”なんだ。敬妻協会なら引き受けてもいいが」
もっとも、カゲ口として「“敬妻”と逃げたのは夫人がコワかったからではないか」という声もあったのだった。
“敬妻物語”のスタートは、福田28歳で時に大蔵省の若きエリート官僚として京都府の下京税務署長、三枝21歳、裁判官の3女であった。
一方で、福田のこうした“敬妻”ぶりの陰で、学生時代はともかく、結婚後はカミサン“一筋”の「一穴主義」ではなかったかの声が多々あった。まさに、「英雄色を好む」で、歴代の首相は大なり小なりそうした話がついて回っている。
かつての福田派代議士だった渡海元三郎は、筆者にこんな話をしてくれたことがある。
「ちょうど私が福田内閣で大臣をやったとき、本会議場の雛壇にすわっていたら、隣の席の松野頼三(現・希望の党・松野頼久の父)が、そっと私に話かけてきたんだ。『歴代総理には大体コレ(と小指を立てて)がいたのに、福田だけは話を聞かんなあ』と。福田先生は女っ気なし、閨閥なし、そのうえいまどきの大物政治家なら大体が持っている別荘の一つもなしの、マレに見る身辺の清潔な政治家だった。“政治は最高の道徳”を、身をもって実行された稀有の人だ」
福田自身も、「わが輩は“三なし”総理だ」と、ニンマリ口にしていたことがある。ところが、「一穴主義」のこの奇跡をもって福田がモテなかったかとなるとまるで逆、京都・下京税務署長時代は京都の祇園の舞妓、芸者から大モテだった。芸者の誰が福田を落とすか、“賞金”が賭けられたこともあったのだった。
=敬称略=(この項つづく)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材48年余のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『決定版 田中角栄名語録』(セブン&アイ出版)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。