自殺未遂で心を病んだ西郷隆盛が愛した流刑地の妻、愛加那 [前編]

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自殺未遂で心を病んだ西郷隆盛が愛した流刑地の妻、愛加那 [前編]

西郷隆盛の妻は3人居りました。最も有名なのは3人目の妻である糸子(イト)ですが、西郷が彼女と結ばれる前に潜居していた奄美大島に滞在していた間だけの妻がいた事はご存知でしょうか。

未だ謎の多い西郷の流刑地の妻、愛加那(あいかな)についてご紹介します。

西郷と愛加那の出会い

西郷は若かりし頃、多くの不幸に見舞われました。

将軍継嗣問題での敗北、敬愛する薩摩藩主・島津斉彬の突然死、安政の大獄、心を寄せた月照との自殺未遂。挙げ句の果てに、故郷から遠く離れた奄美大島に潜居する事になってしまったのです。

島に着いた西郷はひどく荒んでおり、奇声をあげたり木刀を振り回すなどの奇行を繰り返し、村の人から「大和からフリムン(狂人)が来た」と噂されたほどだったそう。そんな西郷を救ったのが愛加那でした。

愛加那は西郷の身の回りを世話するように遣わされた、島の名家の娘でした。大正時代に行われた愛加那を知る人物への取材によると、美人でしとやかでありながらも芯の強い男勝りな一面もあったとの事。そんなところが西郷に気に入られたのかもしれません。

愛加那に出会うまでは同じような縁談をいくつも破談にした西郷でしたが、自分の事を見捨てずに毎日ご飯を作ったり、洗濯もしてくれる彼女のけなげな姿に心を動かされたのでしょう。ついに彼女を島に滞在する間だけの妻、「島妻(あんご)」として迎えたのです。

短くも幸せな結婚生活

結婚後、西郷は愛加那を人前で膝に乗せたりするほど溺愛しました。そして彼女との間に1男1女をもうけます。

長男には本来なら「菊太郎」と付けるところを、やがて島を出て本妻とその子供を持つことを考慮し「菊次郎」と名付けました。また、女子の方は西郷が島を出る直前に身ごもった子供だったため、西郷が島を離れた後、彼が愛加那のために建てた家の中でひそやかに生まれました。つまり、2人目の子供は西郷に顔を見せることもできなかったのです。手紙で西郷に娘の名付けを乞うと、「菊」と付けるようにと返ってきたため、そこに「草」を付け足して「菊草(きくそう)」と名付けました。

この菊次郎と菊草は子供のうちに島を出て、鹿児島本土の西郷家が引き取る約束だったため、愛加那はお腹を痛めた我が子でありながら、「預かりもの」として育てる事となります。

西郷との再会

さて、西郷が島を去り、菊草が生まれてひと月ほどしたある日、愛加那は驚くべき事実を知ります。鹿児島本土に帰ったとばかり思っていた西郷が、なんと2度目の遠島で奄美大島にほど近い徳之島に流されたというのです。

西郷は奄美大島の役人に宛てて、「私が徳之島に流された事を知っても、愛加那が決して渡航して来ないようにしてください」と再三手紙に書きましたが、西郷を深く愛していた愛加那が、それを知って黙って従うわけもありません。愛加那は数えで2歳の菊次郎と、生後間もない菊草を連れて舟に乗り込み、大胆にも徳之島まで渡航しました。

3人が無事徳之島に到着し、西郷に再会(菊草は初対面)できたのも束の間、本土から更に離れた沖永良部島(おきのえらぶじま)への重ねての遠島が決まっていた西郷は、なんとその翌日に移送されてしまいます。愛加那らはたった1日の滞在のみで、仕方なく奄美大島に帰ったのでした。

沖永良部島での遠島生活を支えたもの

沖永良部島での幽閉生活は奄美大島や徳之島の生活より更に環境が悪く、西郷は心身ともに苦しめられます。しかしそんな遠島生活を支えたのは、たった1日だけ会うことができた愛加那とその子供たちの姿でした。

「近世名士写真. 其1」国立国会図書館デジタルコレクション

この沖永良部島で書かれた手紙には、「近頃重い遠島のせいか歳をとったせいか、気が弱くなり、子供の事が思い出されてなりません。自分は身も心も強く生まれついたと思っていたのですが、おかしなものです」という気弱な文面に、「膝元で遊び戯れる幼な子をよく夢に見るこの切なさを、誰が知るだろうか」といった意の漢詩が添えられていました。

【参考文献】

西郷隆盛全集編集委員会「西郷隆盛全集」1〜5巻 大和書房 潮田聡/木原三郎「西郷のアンゴ(島妻)愛加那」みずうみ書房 「西郷隆盛完全ガイド」晋遊舎

イラスト:筆者

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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