男前すぎる!西郷隆盛と対峙した偉大な幕臣、彼の名は「山岡鉄舟」[後編]

Japaaan

男前すぎる!西郷隆盛と対峙した偉大な幕臣、彼の名は「山岡鉄舟」[後編]

さて、前回は西郷隆盛と対峙するまでの山岡鉄舟について紹介しました。

男前すぎる!西郷隆盛と対峙した偉大な幕臣、彼の名は「山岡鉄舟」[前編]

今回は、江戸城無血開城を如何にして鉄舟が行ったか、そして彼のその後について紹介していきます。

理不尽過ぎる降伏条件…しかし、鉄舟の涙が西郷を動かした!

運命の慶応4年(1868年)3月9日、鉄舟は駿府(静岡県)で西郷隆盛と面会にこぎつけます。鉄舟は勝海舟から託された親書を西郷に渡しますが、提示された条件は以下のようなものでした。

一、江戸城を明け渡す
二、城内の兵士を向島に移させる
三、兵器を全て差し出す
四、軍艦も全部引き渡す
五、将軍慶喜公の身柄を備前藩に預ける

最後の条件に、幕臣として鉄舟は納得がいかず、涙を流しながら切々と訴えます。

「西郷さんがお仕えしている島津のお殿様が、もしも慶喜公と同じ立場であったならば、貴男は島津様を人質になさると言うのですか?」

当初こそ、“天皇の命令”を盾にして幕府の言い分を蹴ろうとしていた西郷でしたが、元々が情に厚かった彼は、主君と幕府を思う鉄舟の一言で心を動かされます。それによって幕府と新政府軍の交渉はスムーズに進み、遂には無血開城となったのでした。

反逆者…だけど大歓迎?皇室からも信頼された鉄舟

さて、西郷との対談で一躍時の人となった鉄舟は、開城の際にも海舟に同伴し、維新後は駿府に徳川家と共に移り住み、旧友の中條金之助ばかりか、あの清水次郎長親分とも仲良くなるなど相変わらずのバイタリティーを発揮しました。

そんな鉄舟は旧幕府軍だけでなく、新政府からも一目置かれていました。廃藩置県で官僚として取り立てられたり、西郷の依頼で10年間を条件として明治天皇の侍従になるなど、かつての敵からも重用されました。旧幕臣の中には逆賊扱いされるなど容赦ない報復を受ける人が少なからずいたにもかかわらず、鉄舟は破格の優遇を受けたのです。

侍従として取り立てられた鉄舟は、明治天皇が泥酔して相撲を取ろうとしたのをいなして諌めたり、皇居が火事の時にはいち早く駆けつける、時には宮中にあんパンを紹介するなど、皇室からも信頼が厚く、そうしたエピソードには事欠きません。

始末に困る人…だからこそ大人物だった山岡鉄舟

約束の10年が過ぎて侍従を辞した後も、鉄舟は様々な方面で才能を発揮します。禅、書はもちろん、剣でも精進を重ねて一刀正傳無刀流(いっとうしょうでんむとうりゅう)なる剣術の流派も築きました。また、維新で亡くなった人々の冥福を祈るために全生庵(ぜんしょうあん)と言う寺を建立しています。

とことんまでパワーと才気に溢れる鉄舟にも、最期の時が迫っていました。明治21年(1888年)7月19日9時15分、胃ガンを患っていた鉄舟は皇居に向かったまま結跏趺坐(けっかふざ。座禅の座り方のひとつ)し、53年の生涯を閉じます。その死には門弟が殉死したり、明治天皇を始めとした多くの人が悲しみに打ちひしがれるなど、鉄舟が多くの人に愛されていたのを示すものでした。

鉄舟に対して西郷は、“金も名誉も命も要らぬ、始末に困る人”と評価しました。幼少期からひたむきに打ち込む精神を磨き、自分を信じてくれる人のためには何もかも投げ打った鉄舟の人となりを、端的に表していますね。

大河ドラマ『西郷どん』では誰が鉄舟を演じるかはまだ明らかになってはいませんが、山岡鉄舟は西郷の生涯において欠かせない人物であり、どのようにして描かれるかは大いに関心をそそられるものです。興味のある方は西郷と鉄舟の出会い、そして新政府で共に働いた時のエピソードを記した本も多いので、予習しておけばより一層楽しめると思います。

大河ドラマ「西郷どん」

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「男前すぎる!西郷隆盛と対峙した偉大な幕臣、彼の名は「山岡鉄舟」[後編]」のページです。デイリーニュースオンラインは、山岡鉄舟西郷どん幕末日本史江戸時代カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る

人気キーワード一覧