「八重洲」の地名の由来はオランダ人のあのヤン・ヨーステン!…で、ヤン・ヨーステンって誰?

Japaaan

「八重洲」の地名の由来はオランダ人のあのヤン・ヨーステン!…で、ヤン・ヨーステンって誰?

昨年12月に完成した東京駅前の丸の内駅前広場。駅前に開放的は広場が完成したことで、駅舎がより美しく見えるようになりました。その駅前広場がある、丸の内口の反対側にあるのが八重洲口。

八重洲口を出た周辺一帯を八重洲(やえす)というのですが、この地名が江戸時代に日本に漂着したヤン・ヨーステンというオランダ人が由来になっているのはご存知ですか?

「八重洲」の由来になってるヤン・ヨーステンとは?

ヤン・ヨーステンはオランダ人の貿易家です。

彼は、慶長5年(1600)4月にオランダの商船「リーフデ号」に乗って、ウィリアム・アダムスらと共に、現在の大分県にあたる豊後の臼杵に漂着しました。この漂着をリーフデ号事件といいます。

船に乗っていた船員の対処に当ったのが、征夷大将軍になる前の徳川家康でした。家康は牢に入れていたヨーステンらと大坂城で面会。彼らに「日本に来た目的は何だ?キリスト教を広める気ではないか?」などの尋問をします。ヨーステンがアダムスと共に、オランダは日本と純粋に貿易だけをしたいと説得すると家康は納得し、2人を釈放しました。

説得の熱弁に心を動かされたのか、2人を気に入ってしまった家康。征夷大将軍に就くと2人を江戸に呼び、貿易関係の仕事を任せました。2人は家康から江戸に屋敷と、ヨーステンは「耶楊子(やようす)」、アダムスは「三浦按針」という日本名まで与えられたのです。ちなみにヨーステンもアダムスも日本人女性と結婚し、子供も産まれました。

ヨーステンは日本とオランダの貿易発展に尽力しましたが、ジャカルタから日本に戻る船が難破し、そこで亡くなってしまいました。67歳くらいだったそうです。

ヨーステンに与えられた屋敷が、現在の日比谷の近くにあり、その場所をヨーステンの日本人名「耶楊子」からとって、「八代洲(やよす)河岸」と呼ぶようになりました。その後、「八代洲」が「八重洲」と書かれ、明治5年(1872)に初めて町名になったのです。

東京駅でヨーステンさんに会ってみよう

現代では八重洲の地名でその足跡を垣間見ることができるヨーステンさん。実は、東京駅で会うことができます!

八重洲地下街の外堀地下1番街。お店の脇にひっそりといらっしゃいました。見落としてしまいそうなくらい、ひっそりと建っているので、気を付けて探してみてくださいね。

こちらは日蘭修好380周年を記念して建てられた、ヤン・ヨーステン記念碑。左はヨーステン。右が彼が乗っていたリーフデ号です。この碑は八重洲中央口を出て、八重洲通りをまっすぐ進んだ中央分離帯にあります。こちらも少しわかりにくい場所にあるので、ご注意! 平和の鐘が目印です。

数奇な運命から、日本に住むことになり、地名として現代まで残ったヤン・ヨーステン。東京の真ん中で、彼が生きた大航海時代に想いを馳せてみるのも楽しいかもしれません。

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「「八重洲」の地名の由来はオランダ人のあのヤン・ヨーステン!…で、ヤン・ヨーステンって誰?」のページです。デイリーニュースオンラインは、日本の歴史・過去雑学カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る