幕末の志士たちも惚れた!強者・楠木正成のアツ過ぎる一生[その参] (2/3ページ)

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そうした武士達が頼ったのは、後醍醐天皇が“功績第一”として褒め称えて高い官位と自分の名前から一字を与えて“尊氏”と改名させた足利高氏でした。高氏あらため尊氏は、正成と共に鎌倉幕府を討った仲間でもあり、建武2年(1335年)に北条氏の残党を討つために鎌倉へ行っていました。

しかし尊氏は鎌倉で政権を樹立し、朝廷に不信を抱く武士の総帥として謀反を起こしたのです。一見すると『謀反人=悪人』というイメージになりがちですが、本来の彼は後醍醐天皇を尊敬する忠臣でした。しかし、お人好しな上に人望がある尊氏は、武士達に突き動かされてしまったのです。いずれにしても、共に戦った二人は不幸な形で引き裂かれてしまったのでした。

尊氏に勝ったが、勝負に負けた?

正成は、尊氏とかねてから敵対していた新田義貞、皇族武将の尊良親王、公家出身の北畠顕家と言った武人達と共に、尊氏を討つべく出陣します。緒戦こそ義貞が尊氏に押され、建武3年(1336年)正月に京都を制圧されるなど不利でしたが、正成は得意の奇襲戦法で尊氏を撃退しました。

こうして、負けた尊氏は九州を目指して逃げていきますが、朝廷に背いた“賊軍”であるにもかかわらず、多くの武将が尊氏のあとをついて行き、寝返ってしまったのです。勝者である朝廷は、戦力を敗者の尊氏にごっそり持って行かれてしまったことになります。

この一件は如何に尊氏が人徳に溢れた存在であり、対する朝廷は徳ばかりか臣下の信頼を失い続けているかを、正成に痛感させたのでした。

足利軍の大逆襲!正成は打開策を打ち出すが…

『梅松論』と言う書物には、敗れても多くの人に慕われる尊氏の仁徳に改めて感じ入った正成が、「義貞を征伐し、その首を足利殿に差し出して和睦して下さい」と後醍醐天皇に申し上げた、とあります。

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